――それは彼が騎士になる、少し前の物語。

「はい、クエスト受注ですね」「登録でしたらこちらにサインを……」
「いーっしゃぁ!!」「紅玉キタコレ!!」「ちっくしょう……」
「飲むぞ!」「食うぞ!!」「湿気たツラすんじゃねぇーぞぉ!!」
「ちょ、辞めて下さい」「いいじゃねーか……ぐほっ」「生憎彼女は私の相手だ」
「上位解禁、来たーっ!!」「今日は俺の奢りだ、ガンっガン飲んどけ!!」

 今日も今日とて、ドンドルマの集会所は活気に満ちてる。
 上位に登れば大老殿へ上がる事にはなるが、この空気が好きで入り浸る者も少なくない。

 そして、その喧噪から少し離れたテーブル席で見つめ合う男女一組。
 まだ、男女と言うには年若い少年少女。

 少女が纏うは艶やかな紫の鎧。
 首元から滑らかに胸元まで伸びる襟、腰から延びるプレートスカート。
 その硬質を唯一示す光沢から、元が羽虫とは思え無い。
 一本に編み込まれた砂漠の砂色の髪。
 鈍く光る鋼の鉢金。その下から覗くのは、気丈を思わせる翡翠の瞳。

 少年が纏うは右は赤鱗、左は黒い甲殻の印象深い軽鎧。
 腰回りを覆う黒い毛皮が、温暖期の今はやや不似合いか。
 空の王と砂漠の暴君を下し、上位に登った者に許される防具。
 すらりと先の伸びた翡翠色の羽帽子、その下で、襟足の僅かに長い蒼髪が揺れる。

「なぁリト……いつまでコレやる気?」
 元々吊りがちだった紫苑の瞳は、ちょっとうんざりしていた。


   ――――『帽子と鉢金』―――
          ザワザワ

 長らく続いていたであろう睨めっこ。テーブルに突っ伏したのは少年の方。
 背負った水晶の双剣がシャラと鳴る。
 リトと呼ばれた少女はといえば、不満そうに口を尖らせ……。

 ぐいっ

 少年の髪を引っ張り上げた。
「何か視えるまでー」
 一見甘酸っぱかったかもしれない光景が、あっと言う間にカツアゲ現場。
「だったら、お前も、自マキ装備揃えるのがスジじゃねぇかよ……」
 ぐいぐいと、引っ張る方に悪気は無くとも相手はたまったもんじゃない。
 掴む手つれなく払おうとして……。
「だって素材足んねーんだもん」
「だっから売り払うモンは選べつってんだろうがーっ!!」
 チェンジお説教モード。
「大剣なら、鉱石類が何時必要になるか解らない事ぐらっ……」
 そこで、少年が言葉を切る。
 先の言葉の通り、彼女は大剣使いなのだが……。
「お前……剣どうした?」

 あの、嫌でも目に入るデカ物が無い。

「いやーそれがさぁ……」
 彼女の待ってましたと言わんばかりの笑顔に、冷や汗タラリ。
「今さっきのクエで、クシャに食われちまってなぁー」
 記憶が正しければその大剣はカブレライトソードのはず。
 素材探しに、自分も散々引きずり回された物のはず。
 鍛冶屋のおっちゃんが、気前よく作ってくれた新作だったはず……。

「死守しようとか思わなかったのかぁーっ!!」
「しょうがねぇだろ一発でスッパーンとやられちまったんだからっ!!」
「嘘つけ何処のバケモンだそりゃあ!!」
「嘘なもんか、見やがれこの剥ぎ取りナイフの有り様!!」
「んなバケモンにそれで挑むなぁーっ!!」
「さっきと言ってる事違うぞコルァッ!!」
 これが、何時もの酒場の喧騒である。

 彼の名はディフィーグ=エイン。
 彼女の名はリトーシャ、姓はない。

 二人が組むようになったのは火怨病の頃、ナミダ狩りで出来た縁。
 当初はリトの兄と、ディの友人ラウルもいたはずなのだが……。
「つーか、鍛冶屋のおっちゃん怒るぞ……」
 堅物と跳ねっ返り。
 互いの保護者が、何を考えたかは言うまでもなく。
「わーってるよ。だから、さ?」
 そして今や、彼女の猫なで声に逆らえなくなっている現実。

 二人が踏み込んだ場所に響くのは振り下ろされる槌の音。
 遠く離れて尚届く炉の熱、それらが染める赤の世界の片隅。

 そこに、寒冷期の雪山よりも、尚冷たい空気が漂っていた。
 夜の沼地より、尚暗い空気が漂っていた。
「そっかぁ……喰われちまったかぁ……」
 工房の、若旦那の物だった。若とついてもおっちゃんだが。

「よ……良かったな……怒られずに済んだぞ……」
「こ……これはこれで、キツイもん、ねーか?」
 ゲンコツ、或いは雷の一つも覚悟していた身にとっては。
「そっかぁ……そうだよなぁ……」
 叱られた方がどれほどマシか。

「リっちゃんにヤツなんて、モスがレウスに挑むようなもんだしなぁ……」
「ちょっとマテゴルァーっ!!」
「ちょっ、まっ、リト落ち着けーっ!!」
 あまりに落ち込み過ぎて、ちょっとおかしくなってた。
 しばらくは吼えるリトをディが押さえていたのだが……。
 ボウガンの試し撃ちがしたいなぁ、とか言い出した所で揃って逃走。

 鍛冶屋を飛び出し広場へと。
 全力疾走、走った先は、何故だかディの家の玄関口。

「ア、アタシらさ……あそこ……当分入れなくね?」
「待て……俺まで巻き込むな……」
「あぁ、金冠ミニだしアウトオブ眼中かもなぁ」
「せめて銀冠」
「お、認めるんだ」
「ぐぅぅぅ……」

 冗談のようだが大問題。
 ハンターが鍛冶屋に入れないのは命に関わる。

「どうすんだよ……」
「どうするって、なぁ……?」
 ディとリト、二人でドアに身を預け、悩み悩んで考え抜いて……。
 リトは頭抱えて天を仰ぎ、ディはぼそりと呟いた。
「んー……もう一度作ってもらうか?」
「なんつってだよ……?」
「そこはほら、使い心地とかそう言う所でさ……」
「となると……やっぱ材料調達しねぇとだよ、なぁ……?」
 ニヤリと笑うリト。ジト目で口の端引きつらせるディ。
 ディを引きずられるように向かうのは集会所。
 それが、彼等の日常だった。

 つい最近大老殿にいけるようになった事を、うっかり忘れてしまうぐらいに。

 そして集会所二人を待っていたのは……。
「火山の採集ツアーが、無ぇ?」
 何とも非情な宣告であった。

 二人がかりでボードに張り出された依頼を探し、受付嬢に問い詰め。
 けれども見つからず……。
 ディがおずおずと尋ねた相手は、黒髪黒装束の騎士だった。
「ジャッシュさん、どういう事ですか?」
「最近、あの辺りで失踪が相次いでいてな」
 聞けば、今さっきその捜索から帰って来た所だと言う。

 ――この頃のお父さんは彼にとって、まだ顔見知りのナイツというだけでした。
 ――もちろん、その娘の私の事など……いえ、割って入る事もできませんでしたが。

「その様子だと……」
 無言で頷くジャッシュ。
 つまり、まだ何も見付かって無いと言う事。
「上位の方も、望み薄?」
「入り立ての奴なら尚更危険だからな。黒グラ二頭とかはあるが……」
 視線を、ディでなくリトに落とすジャッシュ。
 ディの視線もまた、リトの方へ。
「オイ、アタシが弱いみたいじゃねーかよ」
「いや、実際黒グラにランゴなんて紙以外の何物でもねぇし」
 今日二度目の喧嘩が始まるか。
 期待に集まる周囲の視線。
 ジャッシュが考えるのは、始まる前の実力行使

 けれども、それが始まるその前に……。
「仲良いね〜仲良いね〜」
 ギルドカウンターの下から聞こえて来る声。
 ぬっと沸き出た両分け金髪、ラウル君。首だけ乗っけてご挨拶。
「そんな男女の二人連れが出かけるとね、女の子だけ、或いは両方がぁ〜」

 べしっ

 言いかけた所で、受付嬢に資料でひっぱたかれた。
 首だけ乗っけて、ダラダラウル。
 リトのジト目も何処吹く風で。
「だったら、テメェが来てくれれば大丈夫じゃねぇの?」
「僕はコレからアルバイト〜ん」
 帰ったばかりのジャッシュをディが見上げる。
「悪いが、俺もコレから報告書をまとめねばならないのでな」
 少年は見た。
 ジャッシュの手にあるピンクの包みを。

「あ。リトの兄貴は?」
 最後の望みを口にした時だった。
 サッと青ざめるリトがいて、それに感付いたディがいて。
「剣の代金、何処から出した?」
「ア、アニキの財布から……」
 叱られた所で自業自得だが、生憎当人はハント中。

「しゃーねぇ……どうせ下地からだし他のとこから稼ぐか……」
 結局、リトが適当に選んだ依頼を受ける事に。
 内容も解らないまま引きずられていく少年、哀れなり。

 そして、それを見送るギルドの面々。
「所でラウル君」
「なぁにぃ?」
「何時まで隠してるわけ?」
 チラリと受付嬢が覗いたカウンター。
 上はワイシャツ、腰から下に伸びる赤。
 だらりとはだけた、ギルドナイトの燕尾服。
「可能な限り、かなぁ……」
 ソレは決して、表立って誇れる仕事ではなかったから。

 そして二人は雪山へ。天気は晴天。
 ホットドリンクいらずのピクニック日和。

 彼女が背負うのは朱く、幅広い刀身が目を引く大剣。
 見た目に違わぬ高熱を宿す物。
 彼が背負うのは、金銀火竜夫妻の鱗を用いた双剣。
 力強く伸びる黄金とキラリと煌めく白銀、輝きの冷たさと裏腹に宿す熱。

 二人が見上げるのはフラヒヤに連なる山の一つ。
 散歩でも出来そうな程、なだらかで穏やかな山。
 悠久の時を経て深く地を抉った川の畔に、その拠点はあった。

「なぁリト……」
「何だよ……」
 鉱石を探しに雪山に来たのは間違っていない。
 間違ってはいないのだけど……。

「何っで遭難者救助とか選ぶかなぁーあっ!?」
「良いだろ時期的に実質遺品探しなんだしっ!!」
 でなければそもそも受注の時点で断られている。
「遺族感情考えろ遺族感情!! 第一っ、万一生きてたら一刻を争うじゃねーかっ!!」
「そん時ゃ帰りにでも」
「出来るかぁーっ!! 手当とか搬送とか、俺らがする事になるんだぞっ!!」
「それ、アンタの得意分野っしょ?」
「お〜まぁ〜え〜なぁ〜……っ!」

 ディフィーグ=エイン十五歳、思う。
 何とかならんのかこの女。

 そんなこんなで二人が貴重な時間を浪費している頃。
 なだらかな雪山の頂に降り立った者がいた。

 シャナリ……シャナリ……。
 ……シュルオォォ……

 雪を踏みしめる四肢は透けるように白く。
 風が運ぶ雪は翼を飾り、それは僅かな所作に崩れ。
 とめどなく繰り返されるそれは、柔らかく被せた薄衣さえ思わせる。
 上質な氷結晶のみを喰らい続けたその身、包む鱗は薄氷。

 柔らかに被せられたベールは身を切るように冷たく。
 処女雪の如く柔らかに重ねられた鱗は無情なまでに鋭く。

 ――雪姫。

 その様から、人に付けられた名。
 冷たくも美しい姫君。

 ……シュルル……クルルゥ……。

 不在の王など知る術も無い姫君。
 彼女を間近で見る物が居たなら、鈴を転がすような声を聞いただろう。
 残酷なほどに冷たい気品を含んだ、その笑みを。
 けれどもソレを聞いたなら、零れる吐息に凍えて終わる。

 見下ろす白の中に、二つの影はよく目立った。
 ……降り積もる粉雪を溶かす熱を背負った二人は。

 晴れ渡る空。穏やかな日差し。けれども柔らかく降り積もった処女雪。
 地図で見れば山をぐるりと巡る坂を登る二人。

「つーかよ、こんなユルい山でどうやって遭難すんだって話」
「だから、ギルドに回ってきたんだろ」
 行方不明や失踪を、事ある毎にモンスターのせいにするのもどうかと思うが。
 唯一の可能性は景色に見取れての滑落だから、沿道を行く二人。
 時折広場を見付けては叩き合う軽口。
「たっく……こういう依頼こそ気が抜けねぇっての」
「だ・か・ら・ディフィーグ様に御足労頂いたんじゃねぇの」
 ヒラヒラを手を振るリトに、一瞬片手剣転向を本気で考えるディ。
 けれどもそれをしたら一生下僕、一生サポート。ついでにリトも育たない。

 もっとも……自分が片手剣に馴染むまでに、彼女は伸びてくれるだろうけど。

 少し前まで、下位でくすぶっていると思っていたのに。
 彼女の兄曰く、張り合う相手が見つかったから、との事。
 年は同じでも、力の差は天と地ほどにあった。少なくとも、出会った頃は。
 張り合える。それだけであそこまで伸びるものなのだろうか?

 並び立てる日が……楽しみではある。
 サポートから解放されると言う意味でも、文字通りの意味でも。

 捜索すべきは人ではなく遺品。
 割りきっているのか先を行くリトの足取りは軽い。
 少し風が冷たくなった事に気付けなかったのは、陽射し故か彼女故か。

 二人がたどり着いたのは、外周の終点。
 広い広い場所。半周を岩壁、半周を崖がえぐる広場。
 二人分の足跡しか無い雪を、陽射しが照らす大広場。
「あはっ、すっげぇや」
 早足に中央に立ったリトがはしゃいでくるくる踊る。
 柔らかい雪が蹴り上げられて、日の光にキラキラ光る。
「あのなぁ……」
 そこは、広場と言うより舞台のような、舞台と言うより……。

 闘技の場のような。

 その異変を察したのは経験の差。
「……リトっ!!」
「はい?」
 突然の声、怯むリトを突き飛ばし、諸共に飛んだディの背後を抜ける絶対零度。
 起き上がり、振り向き、抜刀。
 全てをほぼ同時にこなしたディの眼前にあったのは、白い壁、吹雪の壁。
 風に散る雪が吹き散らされ、その主が姿を見せる。

 すらりと伸びた鼻先。
 全体的なラインが一般的に知られるそれより細く見えるのは光の加減か。

「白い……」
「クシャルダオラ……?」
 見惚れる狩人二人は見惚れる裏で、既に戦うつもりでいる。
 ディに守られる形になったリトが、大剣に手を添えて備える。
 少し前まで、獲物を見るや斬りかかっては叩かれていたのが、だ。

 開戦は余りにも静かだった。
 白が白を踏む音。
 紫が白を蹴る音。
「行くぜっ!!」
 静寂を破って真正面から白に迫る赤と黒。

 冷たい金と銀が露にした焔の本性。
 その危険を本能で察した白が、吐息を下に叩き付けて後へ飛ぶ。

 大剣を中腰に構えた、リトの真上に。
「貰ったぁ!!」
 腕力に乏しい頃に力の無駄を抜き去った構えは、奇しくも海を隔てた地の構え。
 重力と遠心力を重ねた一撃が、白い足を捉える。
「ナイス!!」
 雪に埋もれた龍の角へ降り注ぐ焔の乱舞。

 リトがディに頭を譲るのは、己が引き際を見極め切れぬ事を知る故。
 がむしゃらで無鉄砲な娘は、今や他の力量を計るだけの目を持っている。
 その一撃の重さで尾と四肢にダメージを蓄積させる、それが今の役目。
 飛べば足を、飛ばなければ尾を切り落とすまで。

 龍の尾へ剣を振るうリトは思う。
 いつかは、自分が頭を取れるぐらいにと。
 もう一撃とばかり剣を振り上げた時だ。
 翼の向こう、何時もより早く離脱するディが見えた。

 合わせて下がる。
 彼の判断を疑わない。

 剣を背負い直した時、龍の口先で粉雪が舞う。
(アレか……?)
 一瞬の逡巡。
「引けっ!!」
「えっ……?」
 リトをあおった突風はさして致命傷にはならない。
 けれどもそれは、「彼女」の真の恐ろしさを知るには十分だった。

 痛い。
 冷たさは後から来た。

 気付けば周囲の空気はホットドリンクを口に含んで尚冷たい。
 ディの方を見れば、剣を片側だけ背負って同じドリンクを口にしている。
 龍を見れば、粉雪のヴェールを纏ってこっちを見ている。
 どうやら、先程吹き付けて来たのはアレらしい。
 文字通りの、身を切る寒さ。

 ……このなだらかな山で遭難する原因があるとすれば。

「なぁーる程、アレが元凶様ってわけ」
「ブレスに気をつけろよ……鼻息だけでコレだ」
 チラリとディを見れば、籠手をびっしり覆う白いモノ。
 剣からは白い湯気が止めどなく流れていて、ソレが既におかしい。
 ふと、自分の剣を見れば……幅広の刀身にチラリと白いモノが見えた。
「アハハハハ……マジでぇ?」
 下位と上位、その差が如実に現れていた。

 風を纏った龍が、もう不覚を取るとは思えなかった。

「退路、どうなってる?」
 ディは龍から目を反らさない。
 代わりに見れば、自分達の来た方に渦高く積もった雪の壁。
 無理に逃げようとすれば、そのまま崖下に落とされる。
 屈辱を受けた龍が、逃がしてくれるとも思えなかった。

「やるしか、無いってか」
「アイツに付き崩して貰えりゃ良いんだけどな」
 龍が地を蹴る。狙いはリト。
「ははー、優等生は言うことが違……!?」
 最初から避けるつもりでいたリトの手前、大きく体を捻る龍。
 しなる尾が、顔をかばったリトの籠手を打ち付け、弾く。
「リ……っ!?」

 ディの反応の遅れは、決して致命的なものではなかった。
 龍はディの横をかすめるにとどまり、代わりに冷気が肌を裂く。
 寒さも、痛みも……焦りも、悪戯に消耗を生む。
(コイツ……っ!)

 それでも、強大で恐ろしい存在の前で、彼は冷静だった。

「リトっ、大丈夫か!!」
 後ろへ振り返りたい衝動を、押さえて叫ぶ。
「籠手終了のお知らせぇ〜」
 龍から目を反らせない中、のらりくらりとした返事がどれ程の救いか。
「俺が引き付けるから、退路頼む!!」
「ちょっ、逃げんのかよ!?」
 リトはまだまだやる気だろう。
 雪を踏みしめる音、構えて立つ姿が容易に浮かぶが……。

「コイツ、人に慣れてる!!」
 懐くと言う意味では無い。
 戦い、或いは殺し慣れていると言う意味で。
 それは上位と下位とを隔てる壁。
 ましてそれが、古龍であるならば。

 そんな龍の前に立つのに、リトではあまりに心許ない。
 ろくな準備もせず来た事を今更になって悔やむ。
 フルフルやドドブランゴに、閃光玉は効果が薄いからと軽んじた事を悔やむ。
 その白い体は、観測気球の目を誤魔化すにはうってつけだっただろう。

 龍がリトを睨む。その刹那に切り込む焔。
 刃は柔らかく解けた氷壁に阻まれる。
 熱は芯に至る前に霧となる。
 振り抜いたその後も、吹き出た霧は纏わり付いて視界を奪う。

 霧が晴れたとき、それを飲み込む龍の口が見えた。
(ブレスか……)
 まともに受ければ凍死だろう。
 けれど避ける時間は十分にあった。
 少なくとも、致命傷を与えるに足る威力にまで高めるには。

 ぼふっ

「……はい?」
 その放出は余りにも早く、余りにも弱く。
 けれども、足下を凍り付かせるには十分で。
「嘘っ!?」
 覚悟した痛みと死はディの横をすり抜け、氷塊へ剣を振り上げるリトの方へ。
 足下は剣を突き立てれば事足りる。雪から引き抜くにも時間は掛からない。
 それでも、その数秒がもどかしい。振り返れない事がもどかしい。
「リトーッ!!」
 それでも声を張り上げて。

 振り向いて見た入り口、見えたのは龍の後ろ足と尻尾。
 背中から前足で押さえ付けられた紫の鎧。
 超低温を纏う白い龍。それだけで、チラリと過ぎる死。

 龍が、もう興味はないとばかり舞い上がるのを見て……。

「―――――――――っ!!」
 何を叫んだのか良く覚えていない。
 まともな事を考えられていたのかさえ怪しい。
 剣を投げ出さず、背負えたのが奇跡だ。
 抱き上げて見たのは砕けた籠手、僅かにヒビの入った鎧。
 辛うじて意識のあった彼女の、ガクガクと震える体。
「ぁ……のっ……ゃ……ろ……」
 それでも、翡翠の瞳から闘志は消えていない。
 剣を握る事を許したのは、それが今一番の熱源だからに他ならない。

 空を睨み据えたのは、ただの決意のはずだった。

「!?」
 それが、空から見下ろす龍と目が合う結果となる。
 自分達へ、致死に足る冷気を吹き付けようとしている龍と。
 龍の吐息が、リトを庇うようにして抱きかかえたディの背を打つ。
「っ……ぁっ!!」
 焼かれているとさえ思える程の冷気が、二人の命に至る前に阻む金銀の双剣。
 それの宿す熱が冷気とぶつかり、風を起こした。

 武装した人間二人を崖下に突き落とすに十分な程の。

 ディの視界で、全ての動きが緩慢に見えた。
 崩れる足場も、眼下の川も、腕から離れそうになるリトも。
 それを引き寄せたのも執念なら、川に背を向ける姿勢に持ち込んだのも執念。
 けれどその声も、水音も、その時一瞬上がった蒸気の音も……

 ……シュルルっ……クルルぅっ。

 吹雪と、何処か嬉しげな龍の声に掻き消えていった。