数分前のピクニック日和から一転、猛吹雪に覆われた山。
 フラヒヤ山脈の中でも、最もなだらかと言われているはずの山。
 それを悠久の年月を掛けて抉ってきた川がある。

 ザクリ……ザクリ……。

 それに沿うように、歩く少年が居る。
「こんの……ド畜生が……っ」
 紫の鎧と緋色の大剣を背負って、自身のずぶ濡れの体を引きずって。
 川下へ、川下へ、遭難を避けるためのセオリーとしては正しいだろう。
 けれども、山を起点に別れたこの川は、村へと通じていない。

 それでも歩く。ひたすらに歩く。
 人里へ、せめてこの風を凌げる場所へ。
 手足が震えているのは、寒さからではない。

 背負った体が、とても冷たかったから。
 それでもまだ、微かに息をしていたから。
「くたばったら……ぜってぇ許さねぇからな……っ!!」

 目の前にぽっかり空いた闇が、この時ばかりは救いに見えた。
 全てを飲み込むように、開いた坑が。


   ――――『帽子と鉢金』―――
          ヌクヌク

 深い坑だった。風が奥までやって来ない程の。
 ただ、青い壁面が外の光を上手に取り込んでいるようだった。
 ……青いというのが見た目寒そうだが、文句は言えない。
 本当に文句を言うべきは、小型の飛竜なら通れそうなこの広さか。
 あの龍がどれほどの大きさだったかさえ、覚えては居なかったけれども。

 更に奥が二手に分かれて、一方は氷壁、一方は少し狭くなっていた。
 そこにリトを寝かせ、大剣を斜めに立てる。
 そしてその隙間を埋めるように双剣を立てる。
 風避けとしては、あまりに心もとなかったが。
「おいリト……リトっ?」
 揺さぶってみた体は、氷のように冷たかった。
 予測はしていた、ピンピンしている方がおかしい。

 川に落ちたと言う条件ではディも同じ。
 けれども、リトは氷の龍に踏まれていた。
 籠手が砕けて、腕が剥き出しになっていた。
 その差が、今大きく出ている。

 鎧を外し、インナーの黒いシャツを剣に押し付ける。
 水の蒸発する音が聞こえて……けれども、それが燃える事は無く。
「さすが金獅子の黒毛、燃えねぇ燃えねぇ」
 狩ったは良いがスキルに魅力を感じず、現装備の補強に作ったもの。
 実はコイツのせいで、ディも今月ピンチだったりする。

 腰防具の黒い毛皮は、剣にかけておけばそのうち乾きそうだった。
 現在上は肌着一枚。胸元で揺れるのは、銀鎖に繋がれた銀の輪。

 風が直接吹き込まなければなんとか耐えられる。
 かじかむ手でリトの鎧を外し、その容態を確認する。
「……まずいな」
 こまかに震える体、蒼い唇、熱が必要なのは明らか。
 体を拭い、乾いたシャツを着せてやるだけでは間に合うまい。

 ……剣にその役割をさせると、間違い無く火傷。
 かと言って用途が用途だけに、距離を取れば熱は来ない。
 今ホットドリンクを飲ませても、血管拡張は逆効果か。

 思い当たる手段が、一つある。
 あるにはあるが……。

「もしもーし……?」
 伺いの返事が、あるはずも無く……。
 迷う暇は無い。けれども迷わずにはいられない。
 脱いだ肌着を剣にかけようとして、焦げた。
 黒い毛皮の上に置いて、何とかという所。

 そっと……リトのシャツに手をかける。
 嫌われるだろうか、軽蔑されるだろうか。
 雪山で、遭難して、お約束にも程がある。
「ブラまでなら、大丈夫……だよな?」
 そんな少年の純情は……。

 たゆん。

 こぼれ落ちたふくらみにあっさりと裏切られた。
(な、何でこんな時に限ってノーブラ……)
 それも、結構程良いサイズのが。
(……ま、待て待て待て待て待て待て、何処見てる俺ーっ!?)
 緊急事態、非常事態、一刻の猶予も無い。
(見えてるから……見えてるから悪いんだっ!!)
 羽織れる物全部で二人分の体を覆って、抱き抱えて……。

(……逆にやべぇ)
 全身で感じる、リトの体。
 冷えきっては、いた。
 けれども、それは普段大剣を振り回しているとは思えない程柔らかく。
 少し抱き方を間違えたら、それこそ傷つけてしまいそうで……。
 そうならないよう、抱え直して……。

 シャリ……。

(シャリ?)
 その感触に見合わぬ音は、互いの胸元から聞こえてきた。
 こまかな金属の擦れ合う音。
 はてと思って、少し体をずらして覗き込んで見る。
 互いの体が陰になっていたお陰で、それよく見えた。

 リトの首から下がった、銀鎖の首飾り。

 ご丁寧に……その先に銀のリングがついた。
 擦れ合ったもう一つは、ディの胸元。
(えーっと……これはどう言う事で)
 リトは、一応このペンダントの存在を知ってる。
 ちょっとした、御守りとだけ伝えている。
 それと、よく似たデザインの物を……。
(いやいやいやいや、考え過ぎだろ、俺) 

 目のやり場に困り視線を反らすと、膨らみの頂に……。
(止めよう。考えるの止めよう)
 けれども、一度見てしまったものはそう簡単には忘れられない。
 心を無にしようと目を閉じれば、膨らみの間を流れる銀の鎖が浮かび……。
(お願いです……勘弁して下さい俺)
 体温が上がったのは、今ポーチから引っ張り出したホットドリンクのせいだ。

(何か、何か他に考える事があるだろ)
 それは例えば、外敵とか。
 だから目を閉じて、意識を山の上へ。
 装備は無いが、集中すれば何とか視える。
 けれども彼の意識に、先程の龍の影は視えない。
 いや視えるなら、この山に踏み込んだ時に視えただろう。
(待ち伏せされてた……か)
 自分の不甲斐なさが嫌になる。

 その頃になってようやく、反対側の氷壁の中身が気になったのだ。
 目をこらして見つめる氷の中、岩壁に寄りかかるような人の姿。
 その装備や特徴は、依頼書に書かれていた物と一致している。
(縁起でもねぇ……)
 その更に奥に見えた無数の人影は、見なかった事にした。
 目を反らしたい一心で意識を山の頂へ向けると、もう一つ大きな気配を捉えた。

 ――クルル、シュルルゥ。

 白い雪に埋もれた彼女は、白い空の下で御機嫌だった。
 はたはたと粉雪を舞上げる尻尾が、不意に止まる。
 背後に立つ、誰かの存在に気付いたから。
 白い粉雪を舞上げる、黒い黒い同族の姿を。
 彼女は機嫌が良かった。
 不意に現れた来客の同席を許すぐらいに。

 ……彼がこの地を訪れたのは偶然だった。
 散歩中ふと眼下を見れば、ナイフ一本で斬りかかってきた娘がいた。
 面食らったと同時に、面白いと思った娘。
 けれども、そのツガイとおぼしき少年が注意深く周囲を視ていた。
 広く広く周囲を視やる意識に、割り込むのも無粋と思っていた。
 それが不意に途絶えて、今に至る。

 ――御機嫌のようだな。
 ――良いものを拾った。良いものを拾った。

 方や縄張りになど興味は無く、方や上機嫌では戦が始まるはずも無く。
 彼女は語る、嬉しそうに語る。
 綺麗なヒトのツガイを見つけた。綺麗な紫の鎧、綺麗な蒼い髪。
 ちょっと手強かったけど、ちょっと悪知恵働かせて川にドボン。

 ……嬉しそうに語る彼女、彼は黙って聞いている。
 ヒトの武具が、髪が、肌が、綺麗に見える瞬間は確かにあるから。
 そして訪ねる。
 突き落としてどうすると。
 そして彼女は、うっとり微笑む。

 ――飾るの。

 必ず流れ着く岸辺がある。必ず入り込む坑がある。
 そこに吐息を吹き込んで、腐らぬよう崩れぬよう固めてしまうの。
 でもそこが最近一杯になってしまったから、あの二人は巣に持ち帰るの。
 二人並べて、飾っておくの。

 彼女は嬉しそうに語るけど、彼は思う。
 ……悪趣味だな、と。
 龍の世界に法はない。ただ、それぞれの嗜好があるだけ。
 彼は、立ち向かってくる者こそを尊んだ。

 だから思う、合わないと。

 愛でるに足る火を吹き消してしまう者。
 彼が生まれ持って力ある龍なら、それなりの対応をしていた所だ。
 けれど、そうでないからこそソレを尊んでいたのもまた事実。
 無理に顔を合わせる必要は無い。
 さっさと立ち去れば良いだけの話。
 そのはず、だった……。

 ――お前も、綺麗ね。

 背後から、艶やかな気配がしなければ。
 冷たい吐息が、彼の傍らを通り過ぎなければ。
 しゃなりと迫る白い足音、ふぅと溢れる黒い溜め息。
 彼女が、尾の横を通り過ぎるかどうかの所だった。

 ガ……ッ!

 最初、彼女は何が起こったのか分からなかった。
 ポトリと……自身の角が白い雪に落ちるまでは。
 彼女の前でしなる黒い尻尾。
 振り向いた彼の目は、冷たく、射抜くように。
 その時になって、ようやく気付いたのだ。
 相手が、いかなる存在かを。

 方や好きに生き、不自由など知らぬまま育った姫君。
 方や、ヒトと言う名の炎に鍛えあげられた百戦錬磨の猛者。

 ――次は首を刎ねる。

 彼女は、逃げ去るより他なかった。
 白く冷たい雪山を出て、広い広い世界へと。

 見送る彼は、しばしそれを目で追っていたが、はてさてどうしようか。
 ……アレは落ちてしまったと言う、必ず流れ着く場所があると言う。
 ならば、少し様子を見に行ってみようか。

 ……触れる肌が温かい。
 ……締め付ける腕が少し苦しい。
 ……そっと胸元に触れる……唇?

「っ!?」
 ディはそこまで知覚して、やっと自分が寝てしまっていた事に気がついた。
 目を開ければ、首に腕が回っていて……。
「と、と、とりあえず……窮地は……脱したと、いう、こと、で……?」
 絡みつく腕を何とか解く。解いても、解いても……。
「う〜ん……」
 絡みついてくる。

 とりあえず元気なのは解った。服、着させろ。
 ……着させようとして、一回触ってしまった。
 肌着とシャツと、自分の服も上から着せてやる。
 下に敷くのは黒い毛皮の腰防具。
 これだけで、たっぷり5分ほど。

「っの野郎……凍えてる時ぐらい大人しくしやがれっての……」
 鎧は流石に着せていないから、呼吸に合わせて胸の上下を確認する。
 ……まだ生きてる。助かった。今度は助けられた。
 だから、記憶の外に追い出していた物を思い出せた。
 当時のは、当の昔に手遅れだったと言うけれど。

 空が晴れてきたのか、日が傾いて来たのか、洞窟に日が差す。
 日が差して……また陰る。入り口に何かが居ると言う事。
 着ていける物は少ない。今リトに薄着をさせるわけにいかないし時間も無い。
 飛竜相手に、裸同然など自殺行為と解ってはいたが……。

 ……自身の安全など、露ほども考えていなかったから。

 それは、洞窟の入り口の少し奥にいた。
 最初はあの白い龍だと思った。黒く見えるのは逆光のせいだと。
 そうでないと気付いたのは、角に白く光る物があったから。
 黒い龍だった。
「……ご夫婦か何かで?」
 一本道。狭い。古龍、しかもクシャルダオラ。
 ブレスの、文字通り一息でリト共々終わってしまいそうだ。
 剣を壁になるように置いたとはいえ、限度がある。

 幸い、龍の横には人一人すり抜けられそうな隙間があって、うまくすれば……。
 そんな事を考えていた。
 雪山でこの格好は自殺行為という考えは、そもそも無い。
(すり抜け様に斬りつけて……尻尾にもちょっかいだして……)
 ただ、龍の気を引く事だけを考えていた。

 龍が一歩前に出る。青い目がこっちを見た。

 地を蹴った。
(すり抜けて、尻尾に二、三入れて……)
 その後どうやって撒いてこの坑に戻ろうか。
 そんな事ばかりを考えていたから……。

 ゴンッ

 横歩きで、進路をふさがれるなど考えもしていなかった。
 額からぶつかったお陰でさほど痛くない。鼻だったら地獄だったろう。
 たたらを踏みそうになった足を踏ん張って、金色の剣を振り下ろす。
 もちろん、威力も勢いもあったものではないから……。

 龍の爪で、器用に摘み上げる事など造作も無かった。

「えっ、ちょっ、おいっ!!」
 のまま中に持ち上げられる。
 龍がその様をマジマジ眺めている。
 これで、どうしようも無いだろうと言わんばかりに。

 実際そうだった。
 金色の長剣ならともかく、銀色の短剣では龍の胸は愚か腕にすら届かない。
 リーチの圧倒的に足りない剣を振り回す姿は、見ようによっては滑稽で。
「だったら……っ!!」
 ディが剣を突きつけたのは、腕を摘み上げる爪。
 付け根を狙おうと思ったけれど、届いたのは中程。
 龍が一瞬目を細めたように見えたが、掴む力は衰えない。

 龍の気を引くという意味では成功している。
 しかし、自分も生き残るという意味では……。
「くっそ、こっのっ!!」
 地に足が付かない。爪は炎の剣を打ち付けてもびくともしない。
 龍の口の端が、僅かに吊り上がった気がした。
 その笑みが賞賛か嘲笑かなど、解るはずもなく。

 ――人の子は、そうでなくては。

 スカー、縞付き、この界隈では山神と呼ばれる彼は思う。
 このような者が居るから、人間は面白いと。
 殆ど鎧を身につける事無く現れた蒼髪紫眼の少年。
 それは、後ろで凍えているだろう仲間に譲ったからと理解していた。
 爪に打ち付ける刃は熱く、しかし神経のさほど通って無い部分。
 覗き込んだ蒼い髪の下、紫の瞳に一瞬諦めが映って、消える。

 さぁ、ここからどうする?
 諦めてしまうか? 策を弄して来るか?
 嗜虐半分、期待半分に覗き込んだ紫の瞳。
「だったら……」
 そこに、諦めとも閃きとも違う光が映る。
 銀色の短剣の切っ先が、コレまでより下側を向いて……。

 ガキャ……ッ!!

 気付けば、少年自らの腕に突き立てようとした銀の刃に食らいついていた。
 剣の宿す熱は、牙を通じ確実に口内を焼く……かなり痛い。
 牙を通して伝わってきたのは、震えだった。
 ちらりと覗き込んだ紫の瞳。
 歪み滲んだ光は絶望というより、悔しさのそれ。

 口の中の刃が逃れようと藻掻く。
 こちらを放すと、どんな無謀に至るか解ったものではない。
 しかし腕を放せば、間違いなく自分が痛い思いをするし。
 少々やり過ぎてしまったかと思った彼、どうした物かと悩む。

 振り上げた足に軽く顎を小突かれて、じゃあこれから解放しようと思った。
 地に足が付くようにゆっくり下ろしてやると、口の中で振るえる刃が大人しくなる。
 自分も地に腰を下ろすと、紫の瞳に戸惑いの色が生まれる。
 ……もう、放しても大丈夫だろう。
 そう思ったら飛び退き際、切っ先が鼻先を掠めたけれど。

 こちらの意図など、この少年は解っているまい。
 先が有望な者を、このような戯れで摘み取ってしまうのは望むところではない。
 ……だから、彼は腰を上げない。
 それは、天敵のいない草原の草食竜のように。
 敵意は無く、けれどもへりくだるようには見せない。
 ただ腰を下ろすと言う事が、自分より小さな人間に効果的なのを彼は知っている。
 それに……この姿勢を崩さぬまま、少年の相手は出来るだろうから。

 それでも、少年は剣を収めない。
 ただ真っ直ぐにこちらを見据え、切っ先を向けている。
 敵意はなく、怒りはなく、ただ……この先だけは通さないと。

 ――その意志に。
 ――その無謀に。
 ――ほんの少しだけ、報いてみようか。

 少しだけ、坑の横幅を埋めるように姿勢を変える。
 脇腹を無防備に晒すように見えて、尻尾と翼が使えるよう。
 纏うのはそよ風でも、吹き込む風を逸らすぐらいはできるぞ、と。
「あ……」
 それに気付いた少年の顔が、緩む。恐らく殆どの龍は知らないだろう。
 ……悪いことをしてしまった、なんて顔は。

 彼が人であれば、低く笑っていただろう。
 代わりに鼻先で奥に行くよう促してやった。
 振り向き際、小さく頭を下げた意味を彼は知ってる。
 そして、少年の姿が奥に消え……。

「なっにしやがんだこのエロガッパアアアアアアアアアアアアッ!!」

 坑の奥で、女にしてはヤケにドスの入った声と、絶え間ない殴打の音。
「ちょ、まっ、起きたとたんそ……ぐぉっ!?」
 そして時折聞こえる少年のくぐもった声。
 甲殻を纏う龍に人肌という発想は無かった。無かったが……。

 クックックック……。

 その怒号の中に、その悲鳴に、嬉しさや気恥ずかしさが有ることを知る。
 だから彼は、外から人の気配がするまでそこにいた。
 これだから、人間という生き物は面白いと。