時は1304年、寒冷期の初め頃。

 場所はドンドルマの図書館の一角。

 そこに広い、それこそ大樽爆弾一個程度の爆発なら許容するスペースがある。
 本棚の影からそこ覗き込んでいた銀青トラの背後から、長い蒼髪の少女が声をかけた。
「ケインたんケインたん、弟は来てるかい?」
「あーリィちゃん。うん……来てるんだけど、ミャア……」

 一人と一匹が覗き込むその向こう。
 あるのはテーブルの上に詰まれた調合書全五巻。
 そしてそのすぐ下。

「何があったん?」
「薬草とアオキノコ、それぞれ十個分って言えば解るかミャ?」

 うずたかく詰まれていたのは燃えないゴミ。
 灰のように真っ白になって座り込む少年。
 その上で、翡翠色の帽子が赤い羽根飾りを揺らしている。

 虚ろな紫の瞳が何処を見ていたのか、彼女には解らなかった。


   ――――『角竜婦人の子供達:表』―――
 


 蒼髪紫眼の姉弟が歩くのは夕暮れの街。こつこつ響く石畳の音
 腰に提げた
模造剣に手を置く弟。借りた調合書を抱える姉。
 弟、ディは一言も喋らない。喋りようがない。

 姉、リィには慰めの言葉が見つからなかった。
「ま、調合ができんでも生きていけるさー」
 トドメになりうると解りつつも言った一言。
 それに弟は、蚊の鳴くような声で答える。
「お父さんの手伝いどころか、ハンターも……」
「いやいや、調合できんでも狩りは出来るて」
「……僕は、母さんみたく強くない」
 ふてくされる弟。母の強さは、常識からは余りに逸脱してると思うが。

「薬切れる前に、すっぱーんとやっちまえばいいでね?」
 そう言う姉に、弟は目で訴える。
 そうなる前に死んじゃうよ、と。

 無理。出来ない。不可能。
 姉は否定の言葉を口にしない。
 この子は明日狩り場へ発つ。暗示になったら、困るから。

 遠くで聞こえる、弟と同じぐらいの年の笑い声。
 弟の肩が一瞬震える。姉が目を細める。
「おかんほどでなくてもアンタ強いんだから、ボコしたれあんなの」
 弟はふるふると首を振る。
 稽古用カカシの腕を、模造刀で切り落としてからずっとこれだ。
 姉は思う。あんな一撃がポンポン出てたまるかと。

 ……翌日の空は、綺麗に澄み渡っていた。

 広場に入り口を開くドンドルマの酒場。ハンターズギルド。
 街で最も賑やかで騒がしい場所の入り口に母子一組。

 母の出で立ちは両肩から角を生やした分厚い甲殻の鎧と、すねまで広がった黒鋼のスカート。
 腰まで真っ直ぐ延びた蒼髪は、無風故靡きこそしないが日の光を照り返す。
 ……シルエットだけなら角を差っ引いてもお嬢様なのだが。

 ディはいつもの私服の上に鉄の胸当て。
 手足を覆うのはなめし革と竜骨で補強しただけの籠手と具足。
 腰回りを覆うスカート状防具も同じ素材のそれ。
 頭では翡翠色の帽子が、赤い羽根飾りを揺らしている。
 腰と腕にぶら下がる竜骨製の剣と盾、ボーンククリの軽さだけが拍子抜け。

 そこはディにとって、通い慣れた場所のはずだった。
 酒と火薬の匂い。薬と何かよくわからない匂い。
 並んだテーブル。ひしめく人々。ざわめき。宴会。そして鋼の擦れる音。
 掲示板に所狭しと張られた依頼書。

 体にかかる鎧の重みが、その全ての意味を変える。
 例えそれらが、鎧と呼ぶにはあまりに軽いものだとしても。
 今日は、見送られる側なのだ。

 入り口からカウンター前までが、とても長く感じられた。
 周囲のテーブルから向けられる、期待と好奇の入り交じった視線。
 その主には強面もいるし、ハンターなのか疑わしいほどの美貌の持ち主もいる。
 余りに多用な視線が自分に注がれているというのは、すこし気恥ずかしい。
 ただ不思議と、その視線のどれもが怖いとは無わなかった。

 あの場所で注がれるそれらに比べれば。

 たどり着いたカウンターに置かれたのは羽ペン。
「ふふ。いよいよデビューね?」
 受付嬢の柔らかい笑みと共に渡されたのは
数枚の紙が重ねられた束。
 新米ハンター用のギルドカード。
 この先何があっても、全ての責を自分で背負うと言う宣誓書。

 Dyfig=Ain

 彼は何のよどみもなく、自分の名を書き連ねた。
 覚悟など、既に決めているとでも言わんばかりに。
「コレで良いんだよね?」
「あ……はい、受理しました」
 母も受付嬢も少しだけ目を丸くする。
 二人ともこの子はサインするまでに、もっといろんな葛藤をすると思っていたから。
 そして、登録用紙を受付嬢に返すディの瞳には、幾ばくかの決意が浮かんだが……。
「……えーと、これからどうするの?」
 やはり子供だった。

 先の滑らかさを覆すような間の抜けた声に、酒場は水を打ったように静まり……。
「がっはっはっはっはっは!!」
 爆笑の渦に包まれた。
「ほれ母さん、最初のクエスト用意してやれよ」
「小さな狩人の門出だ、ディアブロスとかいっと……」
「そんなわけないでしょ」
 母、頑固パンの欠片を投擲。
「最初は採集ツアーよ」
 標的は額にそれを喰らってあっけなく気絶。スコーンと言う音だけ空しく響く。
「と言うわけで、出来れば密林あたりで無いかしら?」

 はーいと返事をしてカウンター下の依頼書を漁る受付嬢だったが……。
「あら。今はちょっと無いですね密林採集」
「……はい?」
「クックとかコンガとか、今どこも大盛況なんですよ……」
 ちらりと少年に向けられる眼差しは、暗に危険だと言っている。
 当の少年、ディにしてみれば、どのみち危険ならどうでも良いというのが本音。

 しかし、責任の一端を背負う受付嬢はそうもいかない。
 相手はその名も猛き角竜婦人、下手な依頼を回したら命がない(と、思っている)。
 だからこそ慎重にツアー先を探していた彼女の視界にふと、出発口が映る。
 クエストに出る時に使われる出口の前で、赤い帽子に赤い皮鎧の青年がこっちを見ている。
 受付嬢、確か彼の引き受けた依頼はと思い立ち……。
「ちょいラウル君、ちょいちょい」
 嫌そうな顔をされたが構うものかと手招きする。
 暫く無言の抗議が続いたが、最終的にはネコのホリーさんに引っ張られて御用。

「ゲネポス退治、二人も参加させてあげて」
「はい?」
 小さな狩人の門出にざわついていたはずの酒場は静まりかえっていた。
 最初の狩りに出向く前からアクシデント発生。早い話が、話のネタ。

 受付嬢と、母と、ラウルと呼ばれた青年。
 ディにとっては余りに高い位置でかわされる会話。
「ご迷惑じゃないかしら?」
 母の遠慮の言葉を受けて、受付嬢がニコリと笑う。
「いいのよ。どうせコイツのも、採集ツアー無くて片手間に受けたようなもんだから」
 その後、受付嬢が母に小さく耳打ちをして、それで話が纏まったようだった。

 ディに耳打ちの内容までは聞こえなかった。彼が心配だったのはただ一つ。
「んー?」
 このお兄さんが、嫌な気分になってないかどうかだけ。
 表情だけ見ると優しそうだったけど、だからこそ本音が見えないのが不安。
「坊や、名前は?」
「……ディフィーグ。みんなはディって呼んでる」
「僕はラウル。よろしくね」
 少なくとも、悪い人には見えなかったのだけど。

 当初の予定、密林。現実に向かうのは、砂漠。
 移動日数が伸びるのは別に良かった。街を離れたくて仕方なかったから。
 父と姉には、ギルドの方から連絡してくれるそうだし。
 ショップでクーラードリンクを買う時、ラウルが回復弾を買っているのを見た。

 コロコロと、ネコが手綱を取る竜車に揺られて初めて見る街の外。
 緑の草原は広く、地平線は果てしなく。そして段々と日差しが強くなってくる。
 砂漠の辺、小さな村で一休みした頃には灼熱の炎天下。
 あとに広がるのは砂の大地。
 移動の間、ラウルに言われてクーラードリンクの瓶に触れると大分違った。

 ……道中、ポーチの底に茶色い液体の小瓶が入っている事に気付く。
 ラベルには父の字で「戦う前に飲みなさい」とあった。色からして硬化薬だろうか。

 砂漠の中にぽつんと立った岩山。
 ベースキャンプはその影、日差しを避けるような形で立てられていた。
 あるのはテントと井戸と、赤い納品ボックスと青い支給品ボックス。
 井戸はもうその用を成さなくなって久しいように見える。

「んじゃ、帰る時はネコタクチケットと狼煙でお願いしますニャ」
 竜車が去ってしまえば、外に広がるのは果てない砂漠。

 ディは到着するなり盾を右腕に備え付け、小振りな剥ぎ取りようのナイフともう一本、彼の腕ほどある剣の入った鞘をベルトに固定して降りる。
 あらかじめ角竜の鎧を纏っていた母が蒼い太刀を背負ってそれに続く。
 ラウルが羽帽子を被り直して真っ赤な大筒を背負う頃、ディは既にキャンプの出口。

 熱せられた空気が風に乗り、砂を伴って纏わり付いてくる。
 岩場の隙間から見る砂漠は広く、広く、果てしなく。
 砂混じりの風の向こう、砂の中を高速で動く影がちらほらと見える。
 向こうに何か沢山の生き物が動いてるように見えた。

 ここが最初の狩り場になるんだろうか。
 この岩場を見失ったら、すぐ迷子になるんじゃなかろうか。
 砂の海を駆ける生き物に不意をつかれたりしないだろうか。

 小さな胸に渦巻く不安はしかし、
「ディー。こっちよー」
 母の一声で打ち消された。
 振り返ってみればラウルの姿は既に無く、手招きする母が井戸の前。
「あれ……?」
 どうしたのかと聞きに寄ったら、肩に担がれた。
「次からは自分で降りてね」
 井戸に足をかける母。それは、つまり……。
「え、ちょ、お母さぁぁぁあぁぁぁぁあぁあぁぁ〜ッ!?」

 ディフィーグ=エイン十歳。井戸の中初めてのフリーフォール。

 下から吹き付ける風、内蔵が浮き上がる浮遊感、そして着地。
「ぃんぎ……っ!?」
 井戸の底に着地した衝撃で、脇腹が半端無く痛い上……。
「さ、さささささささささ……」

 寒い。

 外の炎天下が嘘のよう。
 母に下ろされて見た先に広がる地底湖。
日の光の差し込まないそこは氷点下にさえ思えた。
「はいこっちねー」
 前途多難。
 出口はすぐ近くだったが、それまでの間にその言葉が幾度となく過ぎる。
 この先も炎天下だろうと、そう考えていたからなおのこと。
「……あれ?」
 岩に囲まれ、日の光の陰るその広場は涼しいぐらいだった。
 さっきの洞窟の冷気でも流れ込んでいるんだろうか。

 広場中央に鎮座する岩の影で、ラウルが二人を待っていた。
「お二人さーん、丁度良いのがいるよー」

 彼が指さした先の川で水を飲んでいるのは、赤茶色の甲羅を背負ったトゲトゲ尻尾の群。
 ディもアプケロスという名前は知っていたけど、見るのは初めて。
 そこから離れて、自分達から近い所に、一匹で水を飲んでるのがいた。

 何となく寂しそうに見えたその子が、こちらに気付く。

 睨まれた。
 それだけは解った。
「ディ、剣を抜きなさい」
 後退ろうとしたところを母に押されて転びそうになる。
「アレを狩ってきなさい、それが最初」
 母が指さしたのは、言うまでもなくこちらを睨んだアプケロス。
 腰の剣を握るまではできた。けれど、狩ると言うことはすなわち殺すこと。

 アプケロスはこちらに一歩一歩近づいてくる。明らかな敵意を持って。
 怖いと思った。
 虐められるのとはワケが違う。そして、自分は敵意を向けられて当然。
 これから、この子を殺そうと言うのだから。

 足は後退ろうとする。背中に添えられた母の手がそれを許さない。
「ディ、あなたは何をしにここに来たの?」
 突き放すような声は、聞いたことの無い物だった。

 狩人になりたい。それは建前だった。
 あの場所から逃げ出したかった。それが本当。
 だけどその為に、外で生きるために、何をしなければならないのか。

 彼は殆ど、考えていなかったのだ。

 剣を抜くことが出来たのは怖かったから。
 震える切っ先を突きつけた程度で引いてくれる相手ではないし、引かれたら困る。
 自分は、この子を……コイツを、狩らないといけないのだから。

 それが自然の摂理。狩らなければ生き残れない。
 出来なければ……あの場所に逆戻りだから。

 背中に添えられた母の手は、押し出してはくれない。
 自分が選んだのは、こういう世界だから。
 ふと、ポーチの底にある小瓶を思い出して手を突っ込んだものの……。

「覚悟は決まったわね」
 母に手を掴まれ薬を取り上げられ、そのままアプケロスの方に付き出された。
 その勢いのまま突きつけた剣の狙いは、血管の通る首筋。

 ぞぶっ

 真新しい刃が肉に滑り込む。傷から血がじわりと溢れ出す。
 あとは引き抜くだけで、速やかに死に至るはずだった。
 狙い通りの傷、予想以上の出血。そこから想像される痛み。
 それが真新しい鎧を汚す。服に染みて肌に纏わり付く。
 何故だか自分の首筋を這う嫌な感覚。
「ひっ……」

 手が緩んだ途端、あっけなく突き飛ばされた。
 足が宙に浮いた。尻餅をついた。
 頭突きを貰っただろう脇腹が痛いけど、それだけ。
 まだいけると顔を上げた時、見た。

 首筋……おそらくは頸動脈に剣が刺さったままのソイツを。
 それでもなお、こちらを睨み付けるソイツを。

 その姿は、鮮烈だった。

 ソイツは遠からず死ぬ。他ならぬ、自分の突き立てた剣によって。
 それでもソイツは逃げず、退かず、こちらを睨み付ける。
 飛竜などとは比べものにならぬ、話にも登らぬような草食獣の一匹が。

 ……その時、自分の逃げ込んだ先がどういう世界かを知る。
 少なくとも、逃げ込めるほど甘い所で無かった事を知る。
 戦えない者は逃げるしかない。それが出来ねば狩られるしかない。
 この上も無くシンプルで、それ故残酷な世界。

 けれど、自分はそれを選んだ。
 帰りたい場所など、元より無い。

 自分は、モンスターハンターになると決めたから。

 大丈夫、動きは遅い。
 駆け寄って引き抜く時に血管を切り裂く、それでいける。いけるはず。
 その前に深呼を吸一つ。

 突き刺さった剣へ伸ばす手に躊躇は無かった。
 埋まった剣が肉を裂く、溢れた血が体を濡らす。
「……ごめん」
 ソイツが上げる苦痛の呻きに、思わず漏れた言葉。
 けれどソイツは、捕食者の謝罪など要らぬとばかり突き飛ばす。

 握った剣は、そのまま抜けた。
 けれどソイツが動かなくなったのは、もう少し後の事。

 相手は、立派なモンスターだったのだから。

 ……今更になって手が震える。膝が笑って立てなくなる。
 体に纏わり付く血の感触。構わず寄りかかった肉は、まだ暖かった。
 頭突きも受けたし盾越しとてはいえ尻尾の一撃は重かった。
 母とラウルが来る。だけど……まだここから動きたく無い。

 泣くと思った。怖くて怖くて、泣いてしまうと思った。
 まだ、ギリギリ踏み止まっていた。

「じゃあ、次は剥ぎ取りね」
 母の言葉は正しい。
 その為に狩ったのだ。殺したのだ。けれど……。

「やらなきゃ……だめ?」
 向かってくるうちは良かった。それに応えていれば良かったから。

 もう動かないソイツに刃を滑らせる事を、心のどこかで拒否してたけど……。

「狩人の基本その一! 命を粗末に扱わない!!」
「何なら、お兄ちゃんが手伝ってあげようかー?」
 逃がしてくれるほど、甘い世界ではない。
 解っていた。解っていたけれど、刃を入れたその時に、とうとう堪えきれなくなった。

 そしてディの手には、涙でほんのり塩味がいてそうな生肉二つ。
 向こうの群に目を向けたのは、ほんの気まぐれだったのだけど……。

「……こっち、見てる?」
「あれはこっち来るわね」
「逃げないもんねーアイツら」
 もちろん、狩りに行かされた。

 ディフィーグ=エイン十歳。
 大自然の(と言うよりは砂漠の)厳しさを知る。