うだるような熱気に反して、森から爽やかな風の通る丘。
 その風が漂う血と火薬の匂いを吹き払ってくれる。
「まーた、こっぴどくやられたな」
 血の臭いを払ったのは蒼装束の騎士が振りまいた生命の粉塵。
 それでも手当されている若者の、紫を主とした鎧にこびりついた赤は痛々しい。
「そりゃあ、仲間の死骸着てるわけだけどよぉ……」
 と言う若者だが、胴鎧以外は砂竜の紫鱗を厳選した物である。

 傍らに立つ黒装束の騎士……ジャッシュの記憶が正しければ、以前は胴鎧も同じだったはずだ。
「油断したな、カイ」
「うーっす。面目在りません」
 この調子だと、銀火竜の一件からさしたる変わりは無いようだ。
 村の交易先の関係で、ネコ付き合いが良くなったことを除けば。

 そして、火薬の匂いの方へと向けば……。
「ディフィーグさんもお仕事ニャ、お仕事ニャ?」
 その元凶たる、緑の鎧を着た黒猫が青装束の騎士に絡んでた。
 少し開いた胸元に手を引っかけられて、蒼い髪の上でニャーニャー鳴く猫。
「そ、お仕事。だーかーら、ジンはカイの手当してろっての」
 絡まれた方はと言えば、やはりというか迷惑そう。
 アイルーのどんぐりメイルだって重いのだ。

 やっとの事で黒猫を下ろした青装束が空を仰ぐ。
「……よし、捉まえた」
 彼の視線は、空の遙か向こうを『視て』いた。


   ――――『騎士の娘、災難に遭う』―――

 今年は酷暑。レウスさんレイアさんは密猟者共のせいで狩り自粛。
 よってクックさんが大繁殖の今日この頃。
 うっじゃうじゃ集まってきたクックさんに追われて飛び込んだ浜辺のキャンプ。
 青い支給品ボックスと赤い納品ボックスの間で、ぐっすり寝ている紫色のガルルガさん。

 船番アイルーさん二人、それぞれボックスの中からブルブルしてます。
 素材は、多分中にあるんですかね。
「前門のレウス後門のレイアって所ですか?」

 イャンガルルガ。知識だけは一応あります。
 かつてはイャンクックの変種とか、リオレイアとの交配種とも言われてました。
 好戦的で常に全身傷だらけ……傷だらけ……この子は甲殻ツヤツヤです。
 若いんですかね? むしろ子供でしょうか。

 さて私を余所に、ラウルさんとミケ姉さんはといえば、
「ねえミケ姉さん、なんとか……」
「ならないわよ?」
 ネコと長身、会話の中間点に私の頭。結構暢気に構えてます。
「闘技場のリトル・マムじゃーん」
「その、リトル・マムが言ってるのよ」
 人間に膝を折った飛竜と、やる気満々のとでは雲泥の差ですか。
 気持ちよさそうに寝ている姿は、ちょっと可愛いですけど……。
「こやし玉で追い払ってしまいましょうか」

 ……私が言うが早いが、両サイドに退ける二人。
 失敬な。汚れるのが怖くてハンターはできません。
「ディよりしっかりしてるや……」
 聞けば戦いにくい場所から追い出す時、調合音痴を理由に押しつけたそうで……。
「フッ……」
 彼にもそんな子供っぽい所があるんですね。
 ああ齢十三、花の乙女でさえ必要と在れば手を汚すと言うのに。

 と言うわけで、ネコさん達と目配せしながら、ガルルガさんの前を通り過ぎ。
 高い木の並ぶ森を抜けて、クックさん達がよくねぐらにしている洞窟へ。
 途中に一カ所、開けた場所があったんです。
 空の開けた草原、クックさんが群れてる浜辺の反対側。

 それを見た瞬間、足が竦みました。

 先ほどのとは、比べものにならない程大きいガルルガさん。
 違うのは片方欠けた耳、全身傷だらけ。
 なのに振り返る一歩一歩の重さが、遠目にも解りました。

 目が合ってしまって……怖い。理屈抜きです。
 何でしょう……足が一生懸命後退りしようとして……。
「退くよっ!!」
 ラウルさんに抱え上げられてなか
ったら、きっと逃げることも出来ずに食べられてたと思います。
 そのまま木のない所を走って走って、飛び込んだのは洞窟の中。
 キノコや葉っぱの生える広場を抜けた、大きな岩壁と空洞の場所。

 冷たい岩の地面に倒れ込んだラウルさん。投げ出される私とミケ姉さん。
「あの、大丈夫ですか……」
「ミケ姉さんが、予想外に、重かっ……た」
「まぁ。失礼しちゃうわ」
 倒れたままのラウルさんが肩で息をしています。私は膝が震えています。
 ……いいえ。膝どころか、肩まで震えています。
 でも、ここは丁度目的地……。
「こ、こやし玉作りましょうか。ねえ?」

「駄目だと思う」
 最初、その低い声が誰の物か解りませんでした。

 ジャコッと言う重い音で、やっとラウルさんと解ったんです。
 いつものヘラヘラ顔と声は、何処にもありませんでした。
「……殺意の有無なんて、そのうち一発で解るようになっちゃうんだよ」
 風に乗って聞こえてくる、微かな羽音。キノコの広場の方です。
「ほんと、因果な商売だよ」
 没収されていたポーチの中身は返されました。万一の備えにと。
 待っててと優しく頭を撫でて、帽子を被り直して行く様は、まるで……。

 その時の私は……新米ハンターでなく、ただの女の子でした。

 広場に繋がる向こう。最初に聞こえたは砲撃。
 けたたましく響くガルルガさんの甲高い声。また砲撃。
 私は何が起こってるかも解らず、岩の上にへたりこんでいるだけ。
「ミケ姉さん……」
「……まあ、アタシも動けなかったから、どうこう言えないけど」
 胸を過ぎったのは、自分だけで無かったという情けない安堵。

 おやすみベアを寝具よろしく抱えた手が、震えています。
 
誰だって最初は怖い物です。
 でも、いつか、それにも立ち向かえる日が来るんだと思います。
 ……いつか……今が、そうでないだけで。そう、今が……。

 でもそれって、正しいことでしょうか?
「マイラちゃん……」
 向こうからは、相変わらず聞こえる砲撃と鳴き声。
 時々、何かがガツンとぶつかり合う声と、砲撃とは違う爆破音がするんです。
 何かできないのでしょうか、何も出来ないのでしょうか……。

 気付けば、裾を引く手が。それに気付いた時、その手が髪を掴んで……。
「マイラちゃんっ!」
「何ですかっ!?」
 思いっきり真っ剣に悩んでるこの時にっ!!
「来ちゃったわよ」
 何かと指さされた方向を見てみれば……はい。確かに来ました。

 ベースキャンプでぐっすり寝ていたツヤツヤのガルルガさんが。
 命名、ツヤルガさん。それはもうやる気満々に足で地面引っ掻いてます。
 一方の出口は切り立った壁の上。もう一方の向こうではラウルさんが戦闘中。

 嫌がおうにも強ばる体。凍り付いていく空気。

「や、やります……?」
「うーん……やめといた方が」
 ラウルさんの居る方から聞こえてくる砲撃音と咆吼、爆発音。
 逃げられない事も無いですが、間違いなく足を引っ張ります。
 幸か不幸か、相手はまだ唸るばかりで仕掛ける気配も無いのですが……。

 気がつけば静寂。爆音も砲撃音も無く。

「マイラちゃん、走るわよ!!」
「あ、は、はいっ!!」
 ミケ姉さんに手を引かれてさっきの広間。
 いたのは明後日の方向ついばんでるガルルガさん。
 親指立ててグッジョブのサインをするラウルさん。
「キャンプへ!!」
 言われずとも走る先は洞窟の出口。
 リロードするラウルさんを横目に、真っ直ぐ走るはずでした。
「マイラちゃん!!」
 ミケ姉さんの声。振り向き様見えたのは思いっきり胸を張ってるガルルガさん。
 直後、緑色の小さな手が私の視界を横切って……。

 キィーンッ……!!

「……いっ!?」
 頭の奥が、ジンジンします……吼えられたと気付くのに、時間がかかりました。
 私の上で動かないミケ姉さん。
振り返るガルルガさん。
 ミケ姉さんが気絶してるだけと知る五秒に満たない時間。

 十分に致命的でした。

 ガルルガさんが躍りかかって来る。ラウルさんが銃を放って走ってくる。
 頭が痛い。振りかぶってきたクチバシは私の一歩手前。ミケ姉さんが意外と重い。
 抱え上げて立ち上がろうとした私の目の前で、一歩二歩後ろに退くガルルガさん。

 不味いと思った一瞬。視界に立ちふさがる赤い影。
 何かがしなる音。はじけ飛ぶ赤と、茶色い何か。ガルルガさんが宙返り……。

 目の前に投げ出されたのは、脇腹から血を流しているラウルさん。
 フルフルの上皮で作った鎧がばっくり裂けていて、その傷口が変色してました。
 実に解りやすい、毒の色。

 尻尾を叩きつけられたと解るのに、少し時間がかかりました。

 気付かぬうちに死んでしまう。そんな事を考えていた時でした。

 頭に心地よく響いた高い音。同じ方向から射す閃光。
 横から出てきた影がラウルさんの傷に回復薬をぶちまける。

 駆け寄ってきたのは船板ネコさん二人組。

「ミケ姉抱えて走るニャッ!!」
 また高い音、音爆弾?
「ぼさっとするニャーっ!!」
「あ、はいっ!!」
 ガルルガさんが明後日の方向向いてるスキに、お二人がラウルさんを、私がミケ姉さんを抱え上げて走る。
 視覚を取り戻したらしい所に、もう一個閃光玉を放り投げて。

 走る、走る、走る。先ほどキャンプから来た道を辿って。
 フル武装のミケ姉さんは結構重い。洞窟を抜ける、空が開ける。
 構わず走ろうとしたけど、高い木が立ちふさがって思わず足を止めてしまいました。

 そこでミケ姉さんの耳から血が出てる事に気付く。
 私に気付いて立ち止まったネコさんに抱えられたまま咽ぶラウルさんの顔、真っ青だった。

 ……手持ちに、解毒薬はあったでしょうか?
 そんな考えが頭に浮かんだ瞬間、浮かぶ最悪の事態。

 馬鹿です。最悪です。今、今泣いたらいけないのに……。
 怖いんです。ラウルさんが死んでしまう事が。
 それを知ったディ君が悲しむだろう事が。
 でもそれが全部、全部、自分の事で泣いてる私が……。
「ニャ……ニャー……」
 違うんです。あなた達は悪く無いんです。
 私が、私が勝手に……。

 どさっ……

 ネコさん達の上で藻掻いたラウルさんが落ちる。
 土気色の顔が、空を睨んでいました。
「逃げっ……げほ……」
 叫んで、咽せて、倒れた。草原の方を振り向いて、いたのはガルルガさん。
 こっちに走ってくる事が解っているのに、私は、どうすることも出来ませんでした。
 後ろから伸びてきたラウルさんの手に引き倒された瞬間、ちらりと蒼が見えて……。

 グァアウッ!!

 ガルルガさんではあり得ないような咆吼と、衝突音。
 次に聞こえたのは、聞き慣れた二つの声。一つは低く、一つは強く。
「ディ!!」
「解ってるっ!!」
 すっと視界に入り込んできた、蒼い髪。
 顔を確認する前に担ぎ上げられてしまいましたが。

 ふわりと浮かび上がる青い翼。その下に、剣を構えるお父さんの姿が見えた。

 ああ、助かった……。

 浜辺のキャンプは船が粉砕されていて、焦げて無いのはクックさんの甲殻ぐらいという惨状。
 それでも私は、彼のナイトスーツにいつものスカーフがない事に気付く余裕がありました。
 開けた胸元がセクシーだなあとか、そこに揺れる蒼い宝玉のペンダントが綺麗だなあとか。
 そんなことに思考を裂く余裕が出来ていました。
 現金なものです。
 さっきまでこのまま死んでしまうとさえ思っていたのに、彼が来た途端これです。

 ミケ姉さんは耳に回復薬一本分を二回に分けて垂らして、すぐに起きました。
 ラウルさんも、解毒薬を飲ませれば命の危機は脱すると思っていたんです。

 でも、その彼が一言。
「……まずいな」
 それが、私の心にやっと生まれた余裕をあっさり押しつぶして仕舞います。
「解毒薬、足りてない」
 ラウルさん、顔が「ぇー?」と言いたげになってます。
 でも、決して冗談で無いことは段々青ざめて行く彼の顔を見れば明らかで……。

「ど、どういう……」
「止血が早すぎたんだ……毒が抜けきって無い。飲ませても一時しのぎだろうな」

 ラウルさんが、諦めきった顔で笑ってます。
 ディ君の口から総動員した知識の断片が零れます。
 彼がラウルさんの帽子に手を伸ばした時、ああ、もう駄目なんだと思ったんです。

「マイラ」
「はい……」
 渡されたのは、解毒薬の瓶一本に空瓶四つ。
「瓶の中身、四つに分けて飲ませて。その後に回復薬、出来ればグレートを一本ずつ。一分置きにだ。できるか?」
「……え」
 私を見据える鋭い双眸に、諦めなど欠片もありませんでした。

「ディ君は……?」
「駄目元で苦虫捕まえて来るっ」
 立ち上がった彼は、目の鋭さを失わないまま、少しだけ笑ってみせた。
 ああ……ラウルさん帽子が虫網代わりですか。ちょっとだけ、私も笑えました。
 まだ大丈夫、まだやれる事がある。
 私は一瞬でも諦めた事を、それを彼に重ね合わせた事を恥じました。

「ディ君、苦虫ですよね?」
 ミケ姉さんと目があったのは、小さな奇跡だったかもしれません。
「……ん?」
「ありますっ!!」
 そうっ! ミケ姉さんの、大量の苦虫がギッチギチ言っているポーチがっ!!
「でかしたっ!!」
 底の方、潰れて苦みエキスが偉いことになってますけど。
 ついでに、ポーチのヒモがミケ姉さんを軽く釣ってましたけど。

 ポーチをひったくった彼は中の苦虫を……ぽいっ?
 いえ、よく見ると反対側の手に一匹。あ、もう一匹拾って、捨てて……。
 捨てられた方はミケ姉さんがかき集めてます。
 何をするのかと尋ねて見れば、自身満々の顔で笑うだけ。

 その間にも彼は苦虫の、蜜で膨らんだお腹をマジマジ凝視しては選別して。
 正確かつ速やかに、けれど、その時間がもどかしい。
「これだけあればいいか」
 そして彼の手には、お腹をぷっくり膨らませた苦虫が五匹ほど。
 どれもコレも、遠目には萎れたオレンジみたいな色をしています。

 この非常時に言っては何ですが。
 凄く……不味そうです。

 それを見たラウルさん……青かった顔がいよいよ土気色に。
 でも、ソレを見たディ君の顔に微かな笑み。私は、少し安心できました。
「さすがにゴネられる状態じゃないか。マイラ、回復薬グレートよこせ」
「はい」
 薬瓶を彼に手渡します。顎を押さえられ無理に口を開けられるラウルさん。
 そして、その、まっずそーな苦虫さん五匹、抗菌石のナイフで体とお腹を泣き別れ。

 それをラウルさんの口に放り込んで、顎を叩いた勢いでごっくんこ。
「!?!!?!!!?!!」
 苦さにのたうち回るラウルさん。
「それだけ騒げりゃ、大丈夫だ、なっと!!」
 その口に、薬瓶を突っ込むディ君。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
 お世辞にもハチミツと合わないだろうその味は、想像だにできません。
 でも、元気に回復しているのだけは一目瞭然でした。
 ヘッドロックしないと行けないほどの暴れようでしたから……。

「苦虫はな、腹が濁ってる方が解毒成分が強いんだ」
 ラウルさんの顎を押さえつけたままちょっと自慢げな彼。
 調合音痴だからと言って、泣き寝入りするような人ではありませんでした。
 とりあえずラウルさんの顔色が悪いのは、毒のソレとは明らかに違うので安心安心。
 まだじたばた藻掻いてますけど。

 ラウルさんが解放されたのは、それからたっぷり二分後の事でした。

「うううう、ディは僕を殺す気だぁ……」
「死にたくなかったら大人しくしてろっての」
 でも傷も深いし、毒にやられていた時間も長かったので、ラウルさんは絶対安静。
 ホムラ君も降りてきました。これで、多分ガルルガさんは来られない。ツヤツヤの方も。
 聞けばあのガルルガさん、このクックさん大発生に乗じて大暴れしているらしいのです。
 それで、とうとうギルドナイトまで動く事になったんだそうで。
「じゃ、先輩に加勢してくるから、マイラはホムラとお留守番な」
「あ、はい……」

 ……ホムラ君の足によりかかって、どれだけ待ちましたかね。
 何時の間にやら姿を消していたネコさん達が、私達の武器を持って戻ってきました。
 ラウルさんの銃は少々泥がついている程度だったのですが、問題はおやすみベアの方。
「パックリね……」
「パックリですね……」
 お腹の部分が裂けて、ワタが飛び出していると言う何とも酷い有様で。
 しかもその色が、うっすら紫色に染まっているのです。
 コレがなかったら、もしかすると……。

 ……今更になって、肩が震えて来ました。
 怖かった。今も怖い。だってそうでしょう。

 でも、あれが飛竜。

 私だけだったら、ラウルさんは間違いなく……。
 でも、ディ君はまるで小用を済ませるような顔で行ってしまいました。
 怖い。でも、あれが当たり前。強くなりたい。いつか。怖い。でも……。

 ……戦いの音は、意外と近くから聞こえて来ました。
 戦っている。お父さんとディ君が、あの飛竜と。
 二人は、怖くないのでしょうか……。

 そんな事をぐるぐると考えていた私は、ラウルさんが体を起こした事にも気付きませんでした。
「何なら、覗きに行ってみるかい?」
「え、あ、でも……」
 まだ、顔色良くないんです。
 毒は抜けても、体力の回復しきって無いラウルさんは、私に体を預けてやっとの状態。
「君には、必要だ」
 それなのに、前へ押し出す手には全く逆らえず。
 私達は、岩陰からそれを見ることになりました。