今更な話だけどさ、伝えたかった。伝えとけばよかった。
 そこにいるのが、四年前出会ったアンタで欲しいと思ってたって。
 それが今を穏やかに生きて、笑っているのが、嬉しかったって。

 ……夢見てたんだろうな。
 その時が来たら、前に立ってやる自分を。

 昨日あれだけ降った雨の名残か、未だに雲が厚い。
 その隙間から差し込む光がよく見える。
「……天国への階段か」
 共同墓地から見上げるには、悪くないかもな。

 ここから視える街の喧噪は相変わらず。
 誰もが当たり前の日々を当たり前に過ごしている。

 前には名の無い墓石。手にはナイフ。酷いよな。
 俺が刻めって。ケインは辞退したって言うし。
 何が一番酷いって、隣に「アガレス=バサゴ」の墓があること。

 アイツを助けたいと思っていたもう一人。
 死人を茶化すのは、無しだと思わね?

 ……情けないよ。

 ここに来る前はそんな資格があるのかって散々悩んだ。
 なのに、いざここに立ってしまうと、今度はそこから動けないんだ。

 
   ――――『彼と彼女と鎮魂歌』――――
           君に幸あれ

 【親と親】

「お、おい、ジャッシュ…ま、まだやる気か……?」
「お、お望みならもう一戦でも……」
 ナイツの詰め所の一角、闘技訓練に使う広場の中央。
 その中央で仰向けに頭を突きつけて天井を仰ぐ黒髪二人。
 転がってるのは槍と剣。二人の、もとい一人の体は痣だらけ。

 ルシフェンが、蚊帳の外に追いやってしまった詫びもかねてジャッシュと一戦交えたのが運の尽き。
 終始優位に立っていたとはいえ、連戦に次ぐ連戦で参らぬはずもなく。
 とはいえナイツ筆頭。部下より先に倒れるわけにもいかず、結局同時にぶっ倒れる事と相成った。
 もちろん、立ち上がる余力もなく胸を上下させるのはジャッシュの方。

「所で、ディフィーグの様子はどうだ?」
「落ち、着いては、いるん、ですがね……」
 ……その落ち着きが、逆に辛い。緩やかに立ち直りつつある。
 進行形であり、もう誰が口を挟むべきで無い。それが歯がゆい。

「マイラちゃんは?」
「何も、知らずにいるかと……」
「それ絶対ばれてるから」
「んなっ!?」
 この手の仮定は往々にして断定と同義である。

 もちろんジャッシュは面白くない。
 呆れ半分飽き半分のルシフェンが頬杖ついているのに気付けば尚更。
「ジャッシュ」
 引きつった生真面目が、口の端を吊り上げた魔王を睨む。
「我が子に知られるのは、怖いか?」
 その顔が、酷く滑稽に見えた。

 悪意を演じようとするには、余りに慈悲深い目をしていたから。

「はい……怖いです」
 彼とどういう関係なのか、不躾な質問を飲み込ませるには十分な。

 【友と友】

「やっぱり温暖期に食べるアイスは最高です」
 ラウルはらしくないと言われるリスクを冒してアイスを買って来た。
 それはあの店へ、あの墓地へ、この子を行かせないため。
 街の広場。椅子に腰掛けてアイスを頬張るマイラを見ながら思う。
 ……裏舞台など、知らなくていいと。

(僕も、大人になっちゃったなあ)
 生命の尊厳など、掃いて捨てていたのは何時のことか。
 おっかなびっくりに狩り場へ足を踏み入れた少年に初陣を聞かれた事がある。
 作り笑いで誤魔化したその時に、丸くなった自分に気がついた。
 今でも禁忌を犯した苦悩は解らない。察することは出来る。

 そう、察することは出来る。しかし、その苦悩を共有することは出来ないだろう。
 それがこんなにも寂しい事だったなど、思いもしなかった。
「ところで、もうアイスは品切れですか?」
 一連の出来事をマイラに知られたくないと言うディの気持ちは解る。
 それは八年前、自分が幼いディに思ったのと同じこと。

 しかし思う。この子が彼を追い掛けるかもしれないと。
 同じ道に足を踏み入れた時、どうなるのか、と。
「太るよ?」
「その分運動してますから」

 少女が「にぃっ」と笑う。
 その笑顔に、はっとなる。

 それは八年前、自分が幼いディにした、作り笑いと同じものだったから。
(……これは、任務失敗かな)

 【娘と娘】

 ラウルの困ったような笑顔。その意味を、マイラは正確に把握していた。
(……大人ってバカです)
 気付かないはずがないのだ。

 目を覚ましたときラウルの息が上がっていた。
 ディに先日のことを謝りに行こうとしたら赤虎が出て留守だという。
 丁寧なお辞儀と一緒にドアを閉められた後、涙を堪える声を聞いてしまった。
 そして、恐怖に負けて嫌な女になるまいと訪れたあの店。
 一カ所欠けた屋根。顔を合わせようと思ったその人はいなかった。

 店員が、常連が、待っていたのは多分その人。
 代わりに、臨月を迎えているだろう店長と話す機会を得た。
 むしろ捕まったと言うべきか。

 彼女が働き出してから、店の空気が変わったという。
 決定打は先月の古龍襲撃、ディが顔に火傷を負ったあの日。
 何が決定打かと言われると解らないのだが、何かが変わった。
 それは例えば、誰かに恋をしたような。
 少なくとも、店名を婦人の姓からコケットリーに変えたのはその時だ。

 明るく朗らかに。そう在ろうとすればするほどちらりと見える切ない顔。
 恋をしたと言わるほどなのだからもちろんキレイになっていく。
 それを聞いたときは、反則だと思った。
 帰っていない彼。啜り泣くその従者。美しくなっていく大人の女……。

 しかし気付いてしまう。
 その割に落ち着いている父からは『仕事』の後に付けるコロンの香り。
 そして何よりも、今日のラウルの態度で解ってしまった。

 彼は騎士。彼女は罪人。
 嫉妬混じりの確信に基づいた不安は杞憂。
 代わりに、もっと残酷な現実がその存在を匂わせる。

 だから少女は、大人の詭弁に付き合う事にした。
「さー、次はクックさん爆殺してやりますよー!」
 いつか、子供のとびきりな我が儘を通す為に。

 【花と花】

 温暖期。並々注がれた冷えた酒。横には老猫。
 ミハイル=シューミ四十二歳独身。世帯はとっくに諦めた。

 アイルーによる、アイルーの為のバー。
 グラスに入ったマタタビ酒を煽るのは四十二の赤虎。
 横でそれを見つめる五十二のアメショ。黒メラのバーテンただ見てる。

 コップに挿された花は二つ。
 一つは六枚の花弁からなる白い釣り鐘状の花が葉の下に。
 もう一つは葉の上に同じ形の花。六枚のうち五枚は薄青、残る一枚は鮮やかな紅。

 飲んでも飲んでも酔えなかった。
「あのバカたれはどうしてるニャ」
「仕事が手に付かないようなので執務室から追い出してきましたニャ」
「……ふん。相変わらずのドへたれニャ」
「ルシしゃまも、いつまであの女の影を追っていますかニャア」
 八つ当たりなのは解っている。

 しかしあの男なら推薦状の一枚、揉み消すのは容易かったはずだ。
 もっとも、それをされていたらあの晩どうなっていたかと思うとぞっとする。
 でも、あの男は一度こうなる事を恐れて逃げ出している。
 その場所に、何故……と。

「ミューゲ、ですかニャ……」
 老猫が白い花をちょっとつつくと爽やかで、ほんのり甘い香りがこぼれる。
 思わず嗅ぎ入ってしまうような、そんな香り。
 やり場の無い思いを抱えるミハイルには慰めとなった。

「君影草、幸福の再来、さりげない美しさ、純真」
 ……カッツェがその花言葉を朗々と並べ上げられて相殺。
 ますますもって切ない気持ちにさせてくれるのである。

 彼女はそうありたいと願ったのか、そうあろうとしたのか。
 もし、彼の守りたかったものがそうなのだとしたら。

「面会の一つもしたなら、有意義なお話ができたかもしれませんニャア」
「坊ちゃま……」
 赤い毛並みを濡らしたモノを拭って席を立つ。
「おや、どちらに」
「……ケイン君に、言づて頼まれてたニャ」
 店を出るその手には、小さな紙片。

 見送る老猫。そしてバーテンが口を開く。
「スズラン、ランポスズラン共に水溶性の毒を全草に持っておりましてニャ」
 うんちくを語る淡々とした声は、呆れ半分怒り半分。
「それを、店のコップに生けないでくれねーかニャ?」
「あら、アテクシとしたことが」

 店に満ちた微妙な空気など素知らぬ顔。
 守るように広がった葉の下で、白い花は変わらず甘い香りを零していた。

 【猫と猫】

 温暖期。手にはアイス。横には年頃の女の子。
 でも、ケインは全然嬉しくない。

 銀青若葉、二人きりの闘技場。蒼火竜は脱力気味だし、陸の女王はぐうたらり。
 時折空気を揺らす咆吼はもっと地下、さらに下。

「……アタシのせいなのかしら」
 秘密にするべきはずの事が、ミケ姉さんにあっさりバレてしまったから。
「どのみちこの道ミャ。オレらはついでだろーミャって話ミャ」
 本当は本の山に埋もれて泣きたいけど、相手は一応年下の女の子。
 こういう時、兄貴ぶってしまうのは悪い癖だと思っていた。

 もっとも、今や「姉さん」が板に付いた相手では役不足にも程があるが。
「うふふ……でも、やっぱりアタシ達でお店行ってれば良かったかしら?」
 そうかもしれない。元より壁の高い恋で、しかも横恋慕。
 恋敵は自分より背丈の低い頃から知ってるちんちくりん。
「いっそオレらで付き合うミャ?」
「まるっとお断り」

 アベック割引券なんて貰ってもしゃーねーミャ。
 そうぼやいて思いついたのが諦めること。
 あの子に回せばきっと彼を連れてくる……よく考えると酷い話だ。
 でも、それがもっと早かったらもっと違う今があったのでは?
 ……駆け落ちなんて、素直に祝福出来るかどうかは別として。
 荒れ狂うだろうおやすみベアの一撃を受けて、生きていられるかも別として。

「でもいいの? ディ君の所に行かなくて」
「今は、ツラを見たくねーミャ」
 色々と、堪えきれなくなりそうだから。

 闘技場が、地下に据えられた部屋の空気が振るえる。
 腹の底に響くようなその音。
「所で、ディアブロスのマギ母さんは何をしてるミャ?」
「さあ……ねえ」

 それは地の底を抜けて、空へ空へ響くような。

 【彼と彼】

 その人の亡骸は、愛騎たる角竜の背にあったという。
 角竜の負った傷もまた、その大半は爪や牙によるもの。
 背負った太刀は血錆の後も無く、鞘も打撃に使われた形跡は無く。

 腑には落ちない。しかし恨むわけにもいかない。
 その人を知る人達の言葉に、どれだけ救われたことか。
 例え、その幾つかが嘘であっても。

 あの時、俺は起こされたんだと思う。でなきゃ都合が良すぎる。
 手の届く所にあったのに、結局俺が壊しちまった。

「……ごめんな」
 二つの墓地に、それぞれに鈴蘭を。多分この花が好きだと思うから。

 彼女の置き土産かな、あの時の眼の冴えが今も残っている。
 墓地の入り口に気配が一つ。出迎え、かな。

 いたのはミハイル。腰はまだちょっと辛いらしい。
「お済みに、なりましたかニャ?」
「うん」
 ……鼻声になりかけた。

「ケイン君から、言づてでございますニャ」
 そう言って渡されたのは折りたたまれた一枚の紙片。
「線じゃ済まさないって言ってましたけどニャア……」
 この一枚でどう済まさないというのか……予測出来ないのが怖いな。
 とびきりの恨み言? 実は薬包紙で毒でも入ってる?

 たぶん、アイツの事一番思っていたのはケインだろう。
 紙を開いたはいいけど、目を固く閉じてた。心の準備が欲しかった。
 ダメだダメだダメだ。ここで怖じ気づいてどうする。

『リリー=ヴァレリア』
『コンラッド=ヴァレリア』

 意を決して開いた目に映ったのはそれ。男女の名前。
 解らないと言おうものならケインに格子模様刻まれる。
 硬直していた腕を引っ張る赤い手に答えて紙を見せる。
「……名前、ですニャね」
 そりゃ解ってるよ。でも……いや、まさか。
「近々生まれる店長さんのお子さんじゃないですかニャ?」
 恨み言とか、そんなんじゃなくってさ……。

 線じゃすまさないって、これは冗談が過ぎるだろ。

「なあ、ミハイル……お前が行」
「ダメニャ」
「即か」
「はいニャ」
「俺、昨日……」
「お辛いですかニャ?」
「ああ。辛いよ」

 人を殺したばかりの奴にさせる事か?

「なら、なおさら行かねばなりませんニャア」
 正直に言おう。逃げ出したい。あの店に行きたくない。
 自分が守れなかったモノを思い知らされてしまうから。
 自分が夕べしでかしたことの、欠片だって伝えたくないから。

「坊ちゃま」
 紙片を手放したがる俺の手を、赤い手が閉じる。
「よく効く薬は、よく染みるものですニャ」
「やっぱり、俺が行かなきゃいけない?」
「ええ。どっかのバカみたく、膿んで腐っちまう前にニャ」
 ……可哀想な筆頭。

 名付け親か。
 ……そんな事まで頼まれる間柄だったんだ。
 ああ、そうだ。これでいいんだよ。
 ここで俺が否定しちゃダメなんだ。

 アイツ、幸せだったんだよな。

 ここを出た先はいつもの喧噪。当たり前の日常。
 そこに彼女はもういない。でも、まだ失われていない。
 一歩踏み出したら、きっと全部終わり。

「……さよなら」

 良い夢を。