――こつん、こつん。
 ――ちくり、ちくり。

 飛んでくるのは小さな痛み。
 訳もわからず与えられて、訳もわからず嘲られる。
 心を細かく切り刻むその言葉を、思い出す事が出来ない。

 ドウシテ僕ナノ?
 ドウシテ酷イコトスルノ?
 ドウシテ仲間ハズレニサレルノ?

 ――こつん、こつ――

 痛みが止まる。間に立つ誰か。
 逆襲が始まった。
 後ろに隠れて、何も出来ない自分。

 何かガラガラと崩れる音、割れる音。
 怒鳴る声。泣く声。どっちも怖かった。

 ……静かになった。

 誰かやってくる。怒ってる。当然だ。
 だって親だもの。子供のために怒るのは当然だ。
 お姉ちゃんは僕のために怒ってくれた。

 ――デモ、ソイツラハ嘘ヲツイテイル。

 お願いだからもう止めて。
 お姉ちゃんまでいじめないで。
 お姉ちゃんを悪者にしないで。

 だから……もういい。
 お姉ちゃんも、もういいよ……。

 顔を上げた。
 お姉ちゃんが大樽爆弾を持ち上げていました。

「ちょっ!? それ、死ぬってーっ!!」

   ――――『キエナイユメ』――――
       忘却という名の福音

「!!」
 毛布をはね除けた向こうは白い幌、揺れる竜車。
 腰に差した水晶の双剣が、シャラリと立てる澄んだ音。

 蒼い甲殻の鎧、黒い装甲が重いのは多分夢のせい。
 蒼い髪が、額にべったりと張り付いていたのも多分夢のせい。
 更に言えば姉のせいに違いない。
 ……鎧を着たまま眠ってしまったのは彼、ディフィーグの責任だが。

 黒鎧竜を狩った帰り道。

 幼い頃の夢。
 何にも出来ずに泣いていた頃の夢。
 周りの声が、何より怖かった頃の夢。
 姉の後ろに隠れて泣いていた頃の夢。
 全てが、もう今更な夢。

「……みっともねえ」
 我ながら、嫌になる。

「あ、あの……ボク何かマズったかニャ?」
「へ?」
 顔を覆った右手の隙間からちらりと見えた白黒模様。
 いわゆるメラルー柄のネコがディフィーグを、ディを見上げてた。
「えと、ちょっと酷い顔なってたのニャ」

 緑の鎧を纏った姿は、よく知られた盗人のそれとはほど遠い。
 最近ではアイルーだって狩り場に出る。飛竜を下した猛者だっている。
 だったらと言うことで本格的にギルドが支援(と言う名の統制)を行うことになった。
「あ、ジンはよくやってくれてたぜ?」

 ところがこのジン、いわゆる爆弾ネコという奴で。
「でも、大樽爆弾は投げろ」
 大樽爆弾持ち上げて特効する様は、在りし日の姉そのもだった。
 当時入っていたのは唐辛子だったと思う……多分。

「イヤーあれはアレで……」
 悪夢の責まで負う必要の無いジンが兜に手をかけると……

 もこっとアフロが出てきました。
 それも、ジンの背丈ぐらいあるのが。

「なかなかクセになりますニャよ?」
「……あのな」
 そして、そのアフロをディがわしっと掴む。

 すぽっとアフロが抜けました。

「ネタの為に命張るな」
 自爆される側の心証も考えて欲しい。
 それ以前に、よく今まで収まっていた。

「ディフィーグさんもいかがニャ?」
「アフロ?」
「どっかんニャ」
 ……そして人間に勧めるな。

「ま、調合とかものすごく助かったけど」
「ソレについては別途料金頂きますニャ」
「金取るの!?」
「メラルーの就職事情は厳しいのニャ」

 この後ネコ権ならぬ人権問題で熱弁を振るわれたのはまた別な話。
 ちなみに、獣「人」なので「人」権でいい。

 と、思わぬおまけが付いてはきたが狩りそのものはいつもの日常。
 狩りから帰った猛者共の万年バカ騒ぎも日常なら、
「お疲れ様でーす」
 受付嬢のスマイルもいつものこと。いつもの事だったはずが……

「じゃ、稼ぎ行こうか」
「俺……さっき黒グラから帰って来たところで……」
「知らんな」
 何が悲しくて、先輩のゲリョス狩りにつきあわされねばならないのか。

「そ、そうだ! 図書館で借りた本! アレ、明日返却日!!」
「でしたら私めが代わりに返しておきますニャ」
「ミハイルーっ!?」
 心配させまいと言う名目で名を出した赤虎に、マタタビ五本で売られねばならないのか。

「ディー。卵も納品しに行くからー。しばらくひきつけといてくれー」
「だっからアンタとゲリョス行きたくねぇーんだぁーっ!!」
 あげく、時間いっぱいゲリョスに追い回されるハメとなったら……。

 家に帰って早々、ベッドに飛び込むのを誰がとがめよう。
「坊ちゃまー……鎧ぐらい脱ぎましょうニャー……」
「元はと言えば誰のせいだ……」

 睡眠欲と汗だくの不快感間をさまようディの視界に、ベッドのサイドチェストが映る。
 その上に、積み上げられた数冊の本が映る。
 柔術の活法殺法を纏めた本に、野草の類を中心とした薬草学の本。
 あとは武芸書の類、その他。
 ……それを確かめ、はてと思う。

「ミハイルー……この本はー……?」
「……やべニャ」
 ブックベルトを鎖にして、本を重りにした即席フレイルが浮かんだ。
 流石に実行はしない。本がグシャグシャになったら、困るから。
 本は結構貴重品なのだ。

 結局自分で返しに行く事にした。
(明日は一日寝てやる……)
「あ、お着替え持って来ますニャ!」
 とりあえず、悪いとは思っているらしい。

 立ち上がろうとして腰の剣が、シャラリと音を立てる。 
 ……ついでだ。鍛冶屋にも寄ろう。
 鎧を脱ぎ捨て、黒のインナーはそのまま、ジーンズと藤色のベスト。
 大抵のハンターが背負うのに対し腰に差すのは、片手剣を振るっていた頃の名残。
 流石に、腰の後ろに差すには少々長かったが。

 図書館は意外と近い。
 そこから鍛冶屋に向かうのに裏通りを選んだのは、近道だったから。

 日の光がほぼ遮られたような所へ、踏み込んだ時。
「ニャー……ッ」
 微かにネコの悲鳴が聞こえた。
 微かに、柔らかい物を殴る音が聞こえた。
 本当に微かだが、『視れば』すぐに解った。

 より暗い角一つ曲がった先。
 表では身なりを整えているらしい、ディと同じぐらいの若い男。
 肩に「人間の」足跡をくっきり残した黒猫。
 男の手に、何かの、棒。

 ――メラルーの就職事情は厳しいのニャ―

 思考と行動は同時だった。

「何してるっ!!」

 背後から手首を片手で掴んでねじ上げる。
 取り落とした棒が、カランと金属質な音を立てる。
「ひ……っ」
 怯んだ。小物だ。痛いようにねじ上げたのはわざと。
 体の向きを変えさせる。怯んで脅えた、本当に小物の顔だった。

「お、おまえ……ディ、ディフィー……」
「へ?」
 覚えの無い顔が、自分の名を告げた。

 どこかで会ったか?
 酔っぱらいの喧嘩ぐらいなら(結構乱暴に)仲裁した事もあったが。
 記憶を掘り起こす間、手首を掴み上げられた男は震えるばかりで……。

 ――こつん。

「あっ……」
 思い出した瞬間逃げられた。
 空いた手を、腰の剣にかけていたのに気付いたのはその後。
「ニ……ニャー……」
「あ、悪ぃっ!!」
 最も配慮すべき被害者を思い出したのは、更に後の事だった。

「ディさん、手当上手ニャね♪」
 先ほど返したばかりの本が、今になって役立った。
 ついでに体も洗ってやったら、綺麗な黒だった。
「こんだけ美人なら、仲間が黙ってないだろうな」
「ニャハー♪ ディさんったらお世辞もお上手」
 だてに十八年リネット=エインの弟をやっていない。
 同じ毛並みぐらいなら見分けがつけられる。

 守衛の詰め所に付く頃には、もう夕日が射していた。
 いくらアイルーが頑丈と言っても、限度があったから。

「ニャにあの守衛さん、感じ悪ー!」
 通報して早々、刃傷沙汰になってないかまず確認、もとい疑われた。
 口には出さないが、仕事の被るナイトと守衛は仲が悪い。
 まして、対ハンターのナイトが一般人の件で通報に来たら、いい気はしないだろう。
「こんな事ならあの時ボッコボコにしてやればよかったニャ!」
「いや、それはマジで俺がしょっ引かれるから」
 まして、そんなことの為に望んだ力じゃない。

「でも、ホントに名前思い出せニャかったの?」
「……いや、マジで今の今まで忘れてたから」
 この子、エールちゃんを広場まで送るのが、最後の仕事。
「じゃあ……アタシも忘れることが出来ますニャ?」
「へ?」

 答えに逡巡した一瞬。目が合った。
 その目はどこまでも真剣で、今回のような事が初めてで無いことを語り……。
「……。ニャハ、変なこと聞いちゃったニャ。今日はありがとうニャー」
「あっ……」
 呼び止める間もなく、走り去ってしまった。

 ――お姉ちゃん……もう良いよ。
 ――でもアンタ、酷い顔してたわよ。

「忘れてたら……思い出さねえよ」

 ――それは弱い自分が、何より嫌いだった頃の夢。