街道をころころと行く、ホロすらない小さな竜車。
その上に、なびく蒼と揺れる焦げ茶。
一組の、若い夫婦が乗っていた。
手綱を引くのは、白衣を纏った夫の方。
愛しい妻と二人きり。されど、その紫の瞳には憂いの色が。
「ルシ君には悪いことしちゃったなあ……」
「でも、あなたが飛び込んできたときは嬉しかったわー」
対して、妻の笑みは眩しい。 陽光を跳ね返す蒼髪も眩しい。
眩しいのだが……。
「麻酔が解けた後、鬼の形相で暴れ回ってた癖に……」
「散弾速射で大暴れした人に言われたくないぞー?」
纏う気配は角竜かくや。纏う鎧も黒角竜。
首に回した腕が恐い。
だがこの程度で怯んでは、彼女の夫は勤まらない。
「どうせなら派手にって大黒柱両断してたと思うけど?」
この夫婦、つい先日豪邸を一つ潰してきたばかりと誰が思うか。
新婚旅行が逃避行とは幸いならず。
ほとぼり冷めるまではと遠方へ。
「ね、ね、サイ、そこってどんな所なの?」
「んー、そうだなあ。良いところだよ」
カラコロカラコロ向かうのは、ホロすらない小さな竜車。
カラコロカラコロ向かうのは、炎の山のその麓。
――――『紅蓮の彼は恋をする』――――
第一幕:神の麓
例えどれほど急な予定でも、どれほど出発の理由が騒々しくとも、
新婚旅行ぐらいつつがなく、良い思い出になって欲しいものと思っていた。
その行き先に選ばれたのは森に拓かれた小さな村。
奥地に広がる沼と、極小さな活火山がもたらす温泉村。
夫が一度仕事で訪ね、いつかゆっくり訪れようと思っていた。
そこで彼等を待っていたのは……
にゃ、にゃぁー
にゃにゃにゃにゃ。
にゃ、にぃにぃ、みぃ〜
ふにゃ〜……にゃあ?
見渡す限りの、猫、猫、猫。
猫好きが見れば垂涎ものの光景である。
普通に、猫が好きなのであれば。
呆ける夫の隣で、ギチギチ言う音がする。
ギチギチ。ギチギチ。
分厚い甲殻の鎧が、黒いプレートスカートが。
錆びたボウガンのような音を立てて、夫に向く。
「……サぁ〜イ?」
しかし、ザイン=スフィーダ、改めザイン=エイン二十五歳。
猫好きだけど、アレルギー。
「い、いや、近くに集落はあった、かなあ……は、ははははは……」
「ほほぉ〜う?」
サイラス=エイン二十八歳、死を覚悟……。
にゃにゃ!
にゃーにゃーにゃー!
にに、サイラスにゃにゃーっ♪
彼の姿を認めて飛びかかる、猫、猫、猫。
「うわああああああっ!?」
呆ける妻の目の前。
夫、あっという間に猫だんご。
にーにー。
ぷにぷに。
にゃーにゃー。
フカフカの毛皮、プニプニの肉球。
それらに翻弄されるその一方、夫が妻の顔を見てみれば……。
「……サイの……サイの……」
潤む瞳、震える声。
猫が夫を独占。夫が猫を独占。
その嫉妬がどちらのものであったとしても……。
「ちょ、ま、抜刀は待ってーっ!」
妻の両手には、背中から降ろした龍刀【朧火】。
覆う鞘から、蒼穹の刃がぎらりと覗く。
「バ……バ……」
サイラスは悟る。
その単語を言い切った瞬間、自分の命運が尽きると。
「で、この人誰ニャ?」
それを救ったのは、無邪気な猫の一声だった。
ついでに言えば、夫の悲痛な叫びが村人達を呼び集める結果に。
「ザインちゃんニャ?」
最初に始まったのは、やはりザインへの質問責め。
猫アレルギーもお構いなし。
下手をすると、先ほど以上の拷問である。
「えっと、あの……」
潤む瞳、震える声。アレルギーには酷過ぎる。
夫とて妻の魂の叫びを代弁したいが……。
「彼女ニャ?」
「どうやって先生陥落させたニャ?」
「どういうご関係ニャー?」
誰一人、一匹、聞いちゃいない。
「あまりに靡かないから、そっちのケ疑惑もあったよな」
「まったくだ。先生と来たら、村中の娘泣かしたんじゃないのか?」
それどころか村人も参加して言いたい放題。
「僕が結婚しちゃ悪いかーっ!!」
湯煙に、悲痛な懇願こだまする。
嫉妬の視線が無いのは幸いか。
「何人も泣かしてそりゃねーニャ」
「第一っ、君らの集落はもっと奥だーっ!!」
「あれ、あまりムズムズしない。ぬこたんもふもふ……平気ー」
今日ここに、英雄譚の幕が開く。
夫婦が招かれたのは、猫アレルギーにまで効く温泉では無かった。
質素ながらも、数名のハンターがたむろする集会所。
そこから、微かに煤の匂いが漂っている。
しばしの骨休めのつもりだったサイラスにかけられた言葉は……。
「ちょうど、人手が足りなかったんですよ」
医者の仕事を求めるものだった。
サイラスは以前、毒怪鳥ゲリョスの繁殖に伴う毒水の被害で訪れた事がある。
この村は、元々がそれらを狩りに来たハンターの中継点だったのだ。
そこに、招かれざる客がやってきた。
グラビモス。鎧竜とも呼ばれる火山の重鎮。
温泉が有れば火山があり、彼等がいるのもまたしかり。
「……最悪の組み合わせですね」
「もう、群れと行って良い数が近くの沼地に降りてきまして」
ゲリョスは火を嫌う。
そのつもりでやって来たハンターが返り討ちに遭ったのは言わずもがな。
彼らの手当をしている医師がいた。
サイラスが前回の去り際に、隠居先の名目で招いた老医師。
たまに手をプルプル振るわせて、患者からのヒンシュクを買っている。
……ワザとだと言うことは、既に周知の事実になっているようだが。
テーブルの隙間をちょこちょこ走り回る猫達が助手らしい。
そして、性質の全く違う物を相手にせねばならないのはハンターだけではない。
「薬は調合のし直しですね」
「すまんの。どちらかで手一杯だったんじゃ」
グラビモスは、代謝の過程で発生する熱と毒を武器にする。
ゲリョスのそれと合わせて、影響は村の水源にまで及んでいた。
「解毒薬じゃダメなん?」
「ダメ」
医学的に言えば、ハンター用の薬品は実に乱暴かつ大雑把。
あんな物をひょいひょい処方出来るのは、それこそ飛竜ぐらいであろう。
妻は湯煙のお陰か猫にまみれ。
顔を緩ませないのは、真面目に悩む夫の為。
「溢れたゲリョスに集落やられちゃったのニャ」
「でも様子見に行ったら、解毒草と毒テングごっそり生えてたニャー」
「じゃあ、そのグラたん追い払えば万事解決?」
その名も猛き角竜婦人。
出来そうだから恐ろしい。
というか、まあ、本当に実行しに行くことになったわけだが。
「ザイン、あまり無理はしないようにね」
夫は薬の調合法をまとめる為、不参加。
「大丈夫大丈夫、羽ぶった斬って転がせば後楽だし」
「そ、そう……はは……」
笑顔で肩を回す妻。
乾いた笑みを零す夫。
比喩抜きで、可能だから恐ろしい。
「おぬし……また偉く強いおなごを娶ったもんじゃの」
「じゃ、行ってきまーす」
暢気に手を振り、一人沼地へ向かった角竜婦人。
――二十三分後。
「サイーっ、重体患者ーっ!!」
人間大の黒い塊と、黒装束の少女を一人で担ぎ戻ってきた。
丁度同じ頃、馬を駆り、村を目指し走る者が居た。
馬にくくりつけられているのものは二つ。
三日月の刃を四方に向くよう付けられた朱い槍。
表面に円錐状の棘一つ生やした盾。
それらの重量を物ともせぬ力強さは軍馬のそれ。
手綱を引くのはまだ十代半ばほど、黒髪の少年だった。
纏うのはシキ国のそれを模した老山龍の鎧。
腰回りは鳥竜の上鱗を編み込んだコートだったが、その姿は若武者と称するに値する。
兜を被っていないが故に、苛立ちの形相がよく見えた。
「あいつら……」
苛立ち紛れ、八つ当たりに等しい感情を鞭に込めたその時……
「ぜってぇボコボコにしてや」
ブヒヒィィィンッ!!
「るあああああああああっ!?」
天地がひっくり返る。背中を強かに打ち付ける。
掴んだままの手綱が籠手越しに食い込む。
振り落とされたと気付くのに、数秒かかった。
受け身を取れたのは鎧に見合った実力故か。
手綱を握り締め続けていたのは、執念故か。
否。
「にーげーるーなぁーっ!!」
執念と言うなら、軍馬を引き留める腕力にこそ言うべきであろう。
「ブヒヒィィィィッン!」
何かに怯え、逃げようとする馬。
「どうしたんだよ、おいっ!?」
それを引き留め、前へ進もうとする人。
数分ほど続いた人馬の不毛な争いは、人間側の譲歩に終わった。
目的地にたどり着いても、武器がなければ意味がない。
少年の苛立ちは、落胆に取って代わられた。
……この少年、ここ数日ツイてない。
潜入任務の名目で、ヒーラーUまで着せられて芳しい成果は上げられず。
その二日後には賊に入られ、飛びかかったら返り討ち。
逃亡用の人質にされたあげく最後は蹴倒された。
そして今、意地とプライドを賭けての追撃も空しく、今に至る。
行くも戻るも、徒歩で行くには遠くまで来てしまった。
幸い、足下には轍の跡。残る足跡がアプトノスの物だった事は残念か。
「馬、いるといいなあ……」
ルシフェン=フォン=ファザード、十六歳。
轍の続く先が、彼の人生指折りの災禍の舞台と、彼はまだ知る由も無い。
――医者として、やれる事はやった。
――そう言えたら、どれだけマシだったか。
何もしていない。
成す術がなかった。
今個室にいるのは、サイラスと「ソレ」だけだった。
ただ、呆然とする他無かった。
このまま逃げ出してしまいたいと、何度思ったか。
その度、外にいる少女の、兄を助けてくれと叫んだ声が過ぎる。
全身の三分の二を深度二度――真皮にまで達する――火傷に覆われた場合、重傷とされる。
ただ呼吸によってのみ、全身を上下させる炭の塊。
炭化が鎧のみと思ったときには、不謹慎ながら一抹の安堵さえ覚えた。
その鎧の、脈を見てしまうまでは。
外せない。外れるはずがない。
それは、既に、癒着とすら呼べない。
この男と、鎧を繋ぐ物。
ジョイントでも、鋼でも無い、脈だった。
肩当ても、胸当ても、腰当ても、兜さえ、同様に。
そして、兜の隙間から見えている、「人間の」瞳と、目が合った。
見たことがあった。
諦めた目だった。
穏やかに、緩やかに、死を受け入れる目だった。
その目が、こっちを見ている。
フルフェイスに覆われた顎が、微かに動いた。
持ち上げられた手を、握ることは出来なかった。
ただ、伝えたいことがあると察して、耳を寄せる。
最後まで語ることはかなわず「ソレ」は動かなくなった。
ただ、その最期の言葉と、目の前の無惨。
導き出された答えは、認めがたい物だった。
認めがたく、しかし他にあり得ない答え。
「ちょっと何処行くの!!」
そして、外で少女に付き添っていた妻の叫び。
鎧を纏ったまま駆け出す音。
「ザイン!」
歯車は回り始める。
個室を飛び出したサイラスが見たのは、開け放たれた扉。
狩り場へ続く道を走る妻の後ろ姿。
視界の隅に、一緒に付き添っていたアメショ柄のアイルーが一匹。
「な、何かあの子、行かなきゃってぶつぶつ言ってましたニャ」
更に視界を降ろせば、真っ黒いアイルーが一匹。
「飛び出して行っちゃったニャー」
彼等は果たしてサイラスの手の、微かな震えに気付いただろうか。
もし、あの男の言うことが、自分の推測が、正しかったなら。
しかしつい先ほど、ここの人達の為に残ると言ってしまった。
投げ出せない。
例え、その全てが合致していたとしても。
そして、その狭間で動けなくなりそうな彼にアメショの猫が声をかける。
「先生……医者なら間に合ってますニャ」
「え?」
二匹が取りだしたのは白い看護士用のキャップ。
「あれから街に出てお勉強したのニャよ」
「奥さん、追いかけてあげるのニャ」
見渡す、誰もが言う。
大丈夫だ、と。
「……すいません!」
立てかけてあったのは蒼火竜の素材より作られたボウガン。
それに手をかけて、やめる。
もし、全ての推測が正しかったなら……
「僕達の荷物は!?」
「あ、まだ降ろしてねーニャ」
「解った!!」
これでは、役不足だ。
辿り着いた竜車の荷台。
それを、黒いシキの鎧をまとった少年が見上げていた。
ルシフェン=フォン=ファザード。
砂漠の村で知り合って以来の仲だった。
「あ、サイ……」
「ルシ君……もう非番だったっけ?」
それが、幸運か不幸なのかは解らない。
その子の肩に、鎧と同じ、破龍の槍が担がれていたことは。
その子が若くとも、法の番人たる騎士であったことは。
そして竜車の中には、そんな彼には見せにくい物が入っている。
「ルシ君、あの、さ……」
「ああ、繚乱なら大丈夫だよ?」
繚乱の対弩。ライトボウガンの最高峰と名高い一品。
医師とハンターを兼業しているサイラスがそれを持っているのは……。
「あのとき、館と一緒に焼けた事にしちゃったから」
この旅のきっかけになった館から、持ち出し物だからである。
「……いいの?」
「俺、ナイツ筆頭の息子だし」
「そーゆーの正す為になるって言ってなかったかい?」
そして、もう一つの問題。
「でもさ、そんなの担いで何しに行くの?」
果たして、この子を巻き込んで良いかということ。
全てが気のせいならそれで良い。しかし……。
「……サイ?」
「いや……」
「ナイトに面と向かって言えないような事でもあるのかなー?」
ルシフェンも十六。そろそろ上目遣いに無理が出て来ていた。
それでも屈むように見上げているのは……。
ひょいっ
抱え上げる為である。
「ちょ、ちょっとちょっとちょっとーっ!?」
老山龍の素材で作られたそれは、肩当てがでかい。
それも、肩の外側部分が。
よって非常に担ぎやすい。
「緊急ってのは顔見りゃ解るってーの」
「ちょ……待っ……!」
「さーお客さんどちらに?」
彼らの向かうその先は、炎の山のその麓。
炎の山のその麓。
灼熱の大地を駆ける二つの影。
先を走るのは黒い装束を纏った娘。
シキ国で黒子と呼ばれるそれに、背負った黒い傘は不似合いだった。
どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう
どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう
どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう
彼女の頭の中にあるのはそれだけだった。
言ってしまった。すがってしまった。
助けて、と。
もうどうしようも無い。助からない。それを、解っていながら。
解っていたのに。言ってしまった……。
飛び出してしまった。巻き込めないと。
しかし、自分一人で何ができる?
肝心の鎧もアレでは使い物にならない。
いや、おそらくは先生達は「武器を持っていた」ということにすら気づいていないのでは?
肝心の刀身は「あの場所」に置き去りだが、握りしめていた柄は取り込まれ、もはや籠手との区別が付かなくなっている。
彼女の武器は背負った傘……ダークフリルパラソル一つ。
弾丸はまだ十分残っている。撃つ間も与えられぬままの敗走だった。
兄を抱えたまま、灼熱の火山を走って、走って、転んだ……。
その時と同じように今、ひやりとした物が頬に触れる。
「これ、飲んでおかなきゃきついわよ?」
顔を上げれば、クーラードリンクのビンを向ける蒼髪の女性……ザインがいる。
自分の容態を気にかけながら、時折周囲に向けられる視線には、一分の隙もない。
もっとも警戒するような対象は、この奥に在る者を恐れてこの場には現れないだろうけれど。
……一人で行って、何になる?
誰かに口外して良い物でも無い。
それに、まず謝らなければ。
手渡されたドリンクを飲み干し、冷えてきた頭にそんな考えが過ぎる。
それを伝えるべく見上げた先の顔は、こちらを向いていなかった。
「何かやばいのでもいるのかしら……」
まるで、その奥に在る者を知っているかのように。
灼熱の大地が氷点下にまで冷えたような錯覚を感じる。
奥に潜むそれには、あり得ない空気。
「確定……ね」
周りには、何もいない。
ただ、ザインが獲物を認識しただけ。
黒子の少女は、自分が後退っていることに気づかなかった。
ただ、思う。
もしかして、この人になら、と。
しかし……。
「よし、行くか」
「え、え、ちょ、ちょっと……っ」
このとき、追う者と追われる者が逆転した。
それから、数刻後、同じ場所に、やはり二つの駆ける影。
先を駆けるのは若武者。後を追うのは医者。
両者とも服用した強走薬のおかげで息切れ一つしていない。
危険へ向かう妻を連れ戻す。
そんな目的を持つサイラスの焦りを、ルシフェンのそれは上回っていた。
サイラスは話した。担ぎ込まれた少女と男。男を焼いた、異常なまでの灼熱。
ルシフェンは、何も語らなかった。
もしそれが事実なら、もしその推測が正しいなら……。
「先生、まだついて来んの?」
うかつに、巻き込む人間を出して良い物ではない。
それとも、角竜婦人に頼らざるを得ない事態なのか……。
だが、全ては無用の心配。
「一人で帰ったら、みんなに合わせる顔がない」
こうなるとサイラスは止まらない。
二人は走る。炎の山のその奥へ。
噴煙立ちこめ、昼なお暗いその場所へ。
そして見た。
思い描いたそれに、よく似たモノを。
思い描いたそれと、似て非なるモノを。
細い体から広がるのは巨大な翼。
その間から、すらりと伸びる長い首。
それは、見紛う事なき「龍」だった。
「ミラボレアス……」
サイラスが呟いたのは、伝説に残る黒龍の名。
ただ、その頭を飾る角の肥大化した左半分が。
それを彩る紅色の輝きが。
自らを、彼らの知るそれと、似て非なるモノだと誇示していた。