生まれたままの姿。親から貰った体。
 ハンターを嫌う人間が、身内の職に口を出すときの決まり文句。
 ……いや、理解のある両親でさえ覚悟の有無を聞いてきた。
 無いわけではなかった。だが、あったと言っても嘘になる。
 小さな傷だったら幾らだって残っている。
 初めて単独で挑んだディアブロス蹴り飛ばされたときは本気で恐かった。
 先々週のテオは……覚悟を決めてなければあんな無茶できないと思っていた。

 瞳を固く閉じていたのは、被った湯が入るのを嫌っただけではあるまい。

 腕を、頬を、伝う湯の感覚が違う。
 火照りの残り方が違う。
 張り付いた髪に言いようのない違和感を感じる。
 触れても凹凸は感じない。
 それでも、乾ききった手触りは誤魔化しきれない。
 観念して、瞳を開ける。
「思ったより、きついな……」

 目の前に鏡がある。
 蒼い髪。白い肌。
 右頬を覆う赤茶けた枝葉。
 手甲のように腕を覆う、同じ色の蔓。
(……姉貴を先輩に押しつけたの、失敗だったかも)
 顔の火傷を嘆くなど、女のする事だと思っていた。

 鏡に映る姿は、自分であって自分でなかった。

   ――『どうせ癒せぬ傷ならば』――
       それは虚ろな像と書く


 彼が幸運だったのは、落ち込む暇が無かった事。

 自分でない自分との、声無き対話を終わらせたのは遠慮のないノックの音。
「ディ君入るどー?」
「あ、ああああ姉貴っ!?」
 焦る焦る。
 今は生まれたままの姿、にはもう戻れない。
 一糸纏わぬという表現が正しいか。

「ちょっと待って!!」
 下着を着ける。体を拭いていなかった。
 慌てて脱いで拭く。改めて違うシャツを着る。
 まだ濡れてるけど気にしない。と言うか時間がない。
 あの姉が待っていてくれるはずなど……。

「おー……湯上がりほこほこ。色ぽいのう」
「……他に言うこた無ぇのかよ」
 既に、間仕切りの前でニヨニヨしていた。
 内心は渡りに船だったけど。

 姉の格好はといえば浅黄色のベストにロングスカート。そして最低限の荷物。
 緑に染めた髪は相変わらず両サイドに結んでいる。
 その足下に、白布に入れた荷物を背負った真っ赤な毛玉。

「お、ミハイルじゃんか。姉貴が出てからだか……」
 ふにっ、とした赤虎猫の肉球が彼の手を捉える。
「ら?」
「ぼ、坊ちゃ……坊ちゃま……」
 覗き込んだ翡翠色の瞳が涙に震えている。
「おいたわしニャーッ!!」
「だああああーっ!?」
 懐かしき父の旧友は次の瞬間、深紅の弾丸となって飛び込んできた。

 ディの失敗は、インナー姿で飛び出してしまった事。

「なんと痛々しいぃ〜っ!!」
 たかが猫と侮る無かれ。
 誰もついてこれぬという理由で搬送係をクビになった超俊速猫である。
 しかも、大荷物。
 白布の中から鋼の擦れる音がした。
「解った! 解ーったから! つーぶーれーるーっ!!」
 湿った毛が違和感の上をなで回す。
 無事な方でなら気持ちよかったりするが火傷の上からは勘弁してほしい。
 ついでに言うなら、十八手前に「坊ちゃん」も勘弁してほしい。

 母方は由緒ある家だったので、あながち間違いでないとしても。

 ……リビングにいい匂いが立ちこめて来たのは、それから数分後の事。
「だからナイトニャんて反対したのニャ……」
 リュウテールのステーキ、オニマツタケ添えを並べながらミハイルが愚痴を零す。
 ハンターには諸手をあげて賛成した癖に。
「傷は男の勲章だっての」
「限度がありますニャっ!!」
 何のかんので両親が不在の時、そしてその没後世話を焼いてくれたミハイル。
 今回の一件に飛んで帰って来たのだが、このまま給仕という形で雇う事になった。
 ……正式雇用ではなく、居候なので実質タダ。

 姉と囲む夕食は、実に一年ぶりの事。
 交わされる話は、何とも他愛もない事を。

「そういやナイトって普段何やってんの?」
「んー、何もなけりゃ訓練と見回り……ま、華とは縁がないな」
「咲くとしたら血の華ニャんじゃニャいですのニャ?」
「そんな日頃からあってたまるか……つか、まだ来たことねーしそんなの」
「あーダメダメ。コイツはいっぺん覚悟固めたら聞かないから」
「……せめて、ご両親のお墓参りぐらいしましょうニャ?」
「んだね。つってもアタシ来週にゃ帰るよ?」
「明日見回りの時にでも行くか。夕方あたりなると思うけど」
「夕方かー……日帰り採集で時間潰そかねぇ」

−ところでさ、やっぱ騎士装束で行くの?−

 何事も無ければ、訓練その他で終わる。
 長々と待機を強いられるのは有事の時、人手不足に泣かぬ為。
 基本ナイトは、暇なのだ。
 いやむしろ、ギルドナイトが暇に越したことはない。

 夕暮れの墓地に黒衣のナイト。
 赤虎は夕日に紛れてよく見えない。
「ご丁寧に黒用意してくれなくてもいいのによ……」
「良き隣人に恵まれたようで安心しましたニャ」
 荘厳と取るか禍々しいと取るかは見る者次第。
「やはり晴れ姿を見るのは感無量ニャア……」
「多分人斬る時もこの格好だぜ? ……つーか何やってんだあの馬鹿」
 それも、時間と共にふてくされた少年がいるだけの景色に変わる。
 墓地にそぐわない、深紅のナイトがやって来たのはその頃だった。
「お姉さん、来ないよ」
「ニャんと!?」
 その件で呼ばれた。
 そう理解するより早く駆け出していた。

「ああ! 坊ちゃ……」
「君にはちょっと別にお願いがあるんだ」
「はいニャ?」

 病院で二週間寝ていた。
 退院後は軽いリハビリと休息だった。
 その間に、ある事件が世間を賑わせていた。

 新人の女性ハンターが、採集ツアーの帰りに消える。

 全然知らなかった。
 自分のことで一杯だった。
 その事に、どうしようも無く腹が立つ。

「姉貴……や、姉がですか!?」
「敬語はいらんと言ったはずだが?」
 駆け込んで通された先は、やたら天井が高く、壁は一面本棚。
 書斎のような部屋。ギルドナイツ筆頭の、執務室。

 その中央、机上で足を組んでいる男がドンドルマ部隊筆頭その人。
「本当はジャッシュが戻ってからにしようと思ったのだが、少し事情が変わってね」
 ディは正直、この筆頭に良い感情を抱いていない。
 そして、姉とは同好の志だったりするから尚のこと。
「筆頭、肩の黒猫ボウガンはどなたから?」
 事情が変わったとはそう言うことだろう。
「……。君も身内の危機に留守番なんて嫌だろう?」
「話を逸らさんでくだいっ!!」
 この場合、本筋から逸らそうとしているのはディの方。
 黒猫の笑みがまた嫌らしい。

 ナイトが目星をつけるのは早かった。
 新人に多いのは死亡や行方不明でなく、挫折。
 だけど何よりも、過去に全く同じ事があったのが大きい。

 極めて簡潔に纏められた報告書に目を通す。
 頭痛三割り増し。いや、もう慣れた。
「何でその時に、大本の権利その他取り上げなかったんですか?」
「あー、被害者の彼氏が大暴れして、証拠から何から焼失したからなあ……」
 むしろその彼氏をしょっ引く事になったそうな。
 事情が事情なので即日釈放されたらしいが。
「二十年も経ってまたハーレム作りますか?」
「今度は息子が同じマネしてるらしいんだわ……」
 慣れたと思った頭痛再び。筆頭も頭を抱えているがわざとらしい。

 しかし今、本当に頭が痛いのは……。
「あの、筆頭……」
「何かな?」
「その、手に持ってるフリルの塊は何ですか?」
 フリルと黒いシルクの眩いそれが筆頭の手にある事だろうか。
「だってお前、潜入任務とかしたこと無かろう?」
 そしてノックの音が更なる悲劇を伝える。
「おじさーん。ディ君の家から化粧品一式貰ってきたー」
「ご苦労ラウル。タメ口は結構だがおじさんは止めろ」
 あの深紅のナイト、ラウルが入院中の見舞い品一式を持ってきた。

 発端は火傷の跡を隠す為に姉が調合した、活力剤入りのファンデーション。
 悪戯がてら口紅やらマスカラやらが詰め合わせで入っていた。
 そこから悪のりした受付嬢一同が、まあ持って来るわ来るわ。
 悪寒が走る。そこに伸びる筆頭の手。
「こんな事でも無いと使わんだろ?」
 その一言で全てを察した。
「何考えてんだーっ!?」

 そして執務室は戦場に変わる。

 怒りに任せ鬼人化。迸る気に任せて振り払う。
「ま、お姉さんの為と思って」
 ナイト筆頭は手刀の殺傷力など我関せず。
 その手を払い落とす。そのまま射程外に跳ぶ。
「良いだろ別に減るもんでなしー」
「俺の尊厳が減るわーっ!!」
 鬼人化再び。
 長期戦も辞さない構え。

「んなもん、ナイトになった時点で捨ててしまへ」
 それも筆頭が指を鳴らした瞬間、上から降ってきた何かに押さえつけられた。
 ……その時、その瞬間まで、頭上に気配など無かったはずだ。

 いや、今でさえ。

「筆頭、戯れも程々に」
 それを裏切るように響く女性の声。
 己の未熟を思い知らされたディに、ダメ押しの一言。
「ま、それだけ動ければ一人でいいな?」
 ……ハメられた。
「それとも、三対一でやってみるかね?」
「諦めなさいサー・ディフィーグ」
 自分を押さえつけている女性ナイトがこちらを覗き込む。
 銀髪から覗く瞳が優しく見えたのは、果たして気のせいだっただろうか?
「いつもの事です」

 気のせいだったんだろう。

 でなければ、こうして椅子に縛り付けられているはずがない。
 でなければ、受付嬢……即ち女性ナイトを後ろに揃えているはずがない。
「さて、簡単に言ってしまいましたがこの火傷跡は大きなネックですね」
「黒幕はアンタか……」
 ラウルは筆頭に用を頼まれてまたどこかへ行ってしまった。
 その筆頭は遠目からニヤニヤ笑っている。
 いつか下克上してやると心に誓う。

「エロ親父に女性を送り込んでも面白くありませんので、悪夢の一つでも見せようかと」
 自分はその為の生贄ですか。
 そして彼女の後ろでは、儀式の準備が着々と進行中。
「うわ、LUMYのリオハートシャドウがある!」
「のっけから高級品っ!?」
「あー、それ鱗持ってくればその分値引きしてくれるよ?」
「よし! 次の非番の時、狩る!」
 女性ナイト三名、化粧品の物色中。
 そんなに高価ならくれてやる。
 頬を撫でられながらそんなことを考えていた。

「綺麗に隠せていますね、お姉さんですか?」
「……いえ、姉に任せたら偉いことになるんで」
 最初に実演しようとして、口紅を取りだした辺りで殴りそうになった。
 それで入院が三日ほど伸びたが。
「ではチークの使い方だけ説明しましょう。ファンデだけでは血色が悪く見えますから」
 暫く傷隠しのコツやら何やら懇切丁寧に教えてくれた。
 隠していなくても、ナイトとハンターで別人を装うと何かと便利らしい。
 この跡を綺麗に隠すのが必要なのに、違いは無いし。
 それを教えてくれたのが、親切か遊び心かは別として。

「お、クック印の【ドスビスカスのかほり】じゃん。また通なものを……」
「ねえこのキラキラグロスは?」
「LUMYにキリン素材持ち込んだら作ってくれた」
「抜け駆けがいるわ抜け駆けが!!」
「粛正ものよーっ!」
 ディにブランドや化粧品の知識は無い。
 ただ、それでも解ることがある。
 値段の上でも材料の上でも、飛んでもない代物と言うこと。
「愛されていますね」
「いらねえよ……」
 そんなものを見舞い品にして、一体何をさせるつもりだったのか。
 ……それ以前に、ナイトは薄給ではなかったのか?

 銀髪の筆頭副官。その手はまだ頬から放れない。
「所で、ちゃんと顔を洗っていますか?」
「俺、一応男なんですがね?」
 化粧を落とす程度。それ以上はやっていない。
 触れる度に、違和感を思い知るのが嫌だったから。
「もったいない!」
「十代のプニプニお肌が台無し!!」
「いやー十代でもこれは反則でしょー?」
「ファンデ塗ってるとこの方が綺麗じゃねえ」
「良い機会です。徹底的にやりましょう」
 ナイトにデリカシーを期待する方が間違いだったようだ。

「やはりこの跡がネックですね……」
「濃くていいぞー。傾いた娼館が美人の新人売り飛ばすって設定だから」
「……娼館?」
 筆頭。机に腰掛け高みの見物。
「うん。娼館。売り飛ばしたお金、ディの給与に上乗せな」

「ちょっ!? 待っ……ででででででっ!?」
「大人しくしないと化粧できないわよぉ?」
「いだ、いだっ、肩、肩逝くーっ!?」
「お前は陽動だから、最優先は身と貞操の無事なー」
「笑顔で恐いこと言ってませんかぁーっ!?」
「はーい。アイシャドウ塗るからおめめ閉じてねー」
「むぐむぐむぐーっ」
 任務の下準備という名目に弄ばれているのは明白だった。

 そして数分後……。

 陶磁器と見紛うほどに白い肌。ほんのり紅に色付く頬。
 微かに潤んだアメジストの瞳を、桜色のアイシャドウがきつめのラインで彩っている。
 そして体の線を隠しつつも華やかに魅せる、黒を基調としたフリルの衣装。
 今なお後ろ手に縛られている姿は、さながら囚われの令嬢か。
「イリス、本当に徹底的にやったな……」
「腕を振るえと言ったのは筆頭です」
 背後では女としての自信を打ち砕かれた女性三人が泣き咽せていた。

 ディフィーグ=エイン十七歳。歴とした男で、来月には十八歳。

「所で君が男だとして、角竜婦人に手を出せるかね?」
「無理です」
 そして髪を梳かして揃えた姿は、若かりし頃の母その物。
 その母、今の息子程度のナイトなら数人を素手で叩きのめせた。

 怯えて逃げ出されてはと言うことで、急遽黒髪のウィッグを被せられる。
 原材料は悪名高き金獅子の黒毛。
 故に防具としての性能も高い優れ物。
 ちなみに制作ブランドはやはりLUMY。

 鏡に映る姿を、自分と認めたくなかったのは言うまでもない。

 ノックの音が聞こえる。もう何でも来い。
 見る者が見れば口から白い塊が浮かんでいるのが見えたかもしれない。
「おじ……筆頭ー、連れて来わふっ!?」
 入ってきたラウルが誰かに押されてぶっ倒れる。ざまあみろ。
 思考の停止しかかったディに、もう恐れるものは何もない。
「よっ、ルシ公元気か?」
 入って来たのはクマ髭の大男。そうか筆頭のファーストネーム、上は「ルシ」か。
 ラウルの奴は立ち上がろうにも裾を踏まれてるらしい。ざまあみろ。

「ご足労感謝するよグレッグ」
「何が感謝するだ。憩いの時間に土足で踏み込みやがって」
「そう言うな。ちょっと面白い被写体がいてね」

 被写体。その言葉に、思考完全停止。
 そして徐々に動き出し、その言葉を繰り返す。

「……被写体?」
 
被写体。撮影の対象となる人、物、及び景色。

「ってちょっと待てーっ!?」
 暴れようにも両手は椅子。肩を押さえるのは筆頭副官。
 派手な音を立てて揺らすだけで精一杯。
 唯一の救いは、その絶叫が男の声だった事。
「お前……いつか部下に斬られるぞ?」
「だから安全な内に弱み握っておこうと」

 事の次第を察したクマ髭が同情の視線を向ける。
「一昨年辺りジャッシュとか言うのが相当凹んでたぞ。こんなガキまでいじるか?」
「むしろガキだから弄るんだろうが」
 職権乱用ここに極まれり。
「先輩何されたんすか……」
「聞かないでやれ……お前だって嫌だろ?」
 そう言ってカメラを構えるグレッグ。
 流石にナイト筆頭。それに喧嘩を売れとは言えなかった。

「ジャッシュに比べて血の気多いから、それなりに危険手当も出すぞ?」
「よっし! ルシ公、レフ版なりそうな白い板もって来い!!」
「おやこんなところに都合良く白一角竜の甲殻が」
「裏切り者ーっ!!」

 出会って三分の相手に、裏切りもへったくれもないのは言うまでもなく。