それは本来、一部の人間が持っていた力。
 自然から、飛竜から、奪った力で行使したもの。

 初歩においては、飛竜や群を纏める者の強大な気に限定される。
 まず、視覚や嗅覚を通じて得た相手の位置と状態を『視る』事が出来るようになる。
 次に、視覚や嗅覚に頼らずして先の情報を『視る』ことが出来るようになる。

 ここまでは、力を与えれば誰もが出来ること。
 狩人の間では「探知」とか「自動マーキング」とか呼ばれているそうな。

 その力で世界を『視る』。その力で己を『視る』。
 その力から少しずつ己の力で『視る』ようにする。
 さすれば小さくとも有象無象から己の探す『気』を見つける域に到るだろう。
 遙か彼方の心音と感覚まで『視る』域に到るだろう。
 己を『視る』者を知る域に到るだろう。
 有象無象の流れを一つの『気』として『視る』域に到るだろう。

 たゆまぬ努力にて至る者が大半。
 されど、戯れが高じて至る者もいる。
 されど、天性の『眼』を持つ者もいる。

 されど、いかに力を高めようと辿りつけぬ域がある。人の身では叶わぬ域。

 ……細やかな思考や記憶まで『視る』ことが出来る私の域は。

   ――『彼と彼女と、そのワルツ』――
    千里眼奇談・ニーチェの語る深淵

 ……私が今日最初に見つけたのは女。
 年の頃は二十年生きたかどうかか。
 一本に纏め、持ち上げられた赤い髪の女。
 小さな、関節の無い竜の羽があしらわれた赤いヘアバンド。
 同じ意匠が、開けた胸元から背中にかけて伸びる赤い鎧。
 腰から延びる、三本の赤い尾。
 少し垂れ下がった金色の瞳。
 生まれながらに『視る』力を持った女。

 彼女が街の雑踏からソレを『視つけた』のは、偶然だった。
―時計の季節版、張り替え終わったよ―
―おお。こっちも菓子を……て、ありゃりゃ。もう跳んでもうた。しょうがないのぉ―
 その声を『視た』彼女の口元に、有るか無しかの笑みが浮かぶ。
 彼女が極限にまで抑えた『気配』の上を、彼の『視線』がすり抜けていく。
 ああそうか。あの時計塔の上かと。
 遙か空から、彼女が纏う深紅の竜のように、私のように、高みから見渡しているのか。
 しばし彼女は『視たい』を堪え、一時の歓喜に身を預ける。

 ……彼女が見つけたのは少年。
 年の頃は十五年生きたかどうか……に、してはやや小柄か。
 段が付くように切りそろえられた蒼い髪。
 後ろ髪が少しばかり伸びている。
 黒いシャツ。藤色のベスト。ジーンズと呼ばれるズボン。
 少し吊り上がった紫色の瞳。

 『視る』に幼少から触れ、成長期を通じて取り込んだ少年。

 温暖気の太陽の下、世界を『視る』彼の心には『空白』があった。
 その空虚に本来あった物を私は知っている。
 誰よりも強かった母。気付けば肩を支えてくれていた父。
 彼等に守られ支えられ、思うまま駆け回った日々。

 その空虚を広げている物も私は知っている。
 それらに支えられて成り立っていた、今や折れた自信。
 今や姉を守らねばならぬ側に立たされた自身。
 力のきっかけは、幼い我が子を案じた母が与えた装備。
 その力で戯れに『視つめた』彼を、世界はその一部だと迎え入れた。
 その世界は今、何も答えてはくれない。
 彼の『視つめる』世界は、ただ、ただ、果てしない広がりを『視せて』いた。

 そんな彼の意識が、一つの『視線』に気が付いた。

 彼女はちらりと『視えた』彼の『空白』に安堵を感じた。
 時計塔のてっぺんに蒼い髪の、私服姿の少年が小さく見えた。
「思ったより子供ね……」
 だからこそ目を閉じ、ただ世界を『視る』姿が絵になるのだと思う。
 それは手を伸ばすのを躊躇いたくなるような。
 何か神聖なものを目にしたような、そんな歓喜。

 彼女にとって実に久方ぶりの歓喜だった。最後の歓喜は、何時以来であっただろうか。
 彼は時計塔の人に言い訳じみた言葉を残して、手頃な屋根の上に舞い降りた。
 彼女の事が『視えて』いる。
 彼女の目線は彼を追う。『視線』は彼を追う。

 彼女は思う。何時からだろう。空虚に身を任せて生きていたのは。
 幼い頃から『視る』事ができた。『視せる』事が出来た。

 彼女は追う。屋根伝いに、細く複雑な路地裏の上を駆け抜ける彼を。
 跳ね上がる彼の心音。背筋を、腕を、足を、全身を伝う汗の感覚。
 その全てが『視えて』いる。そして、彼にも彼女が『視えて』いる。
 どうやら『視られる』のは初めてらしい。
「ふふ……可愛い」
 経験が有る方が珍しいわけだが。

 彼女に、何も知らぬ人達は近寄ろうとしなかった。
 『視られる』から、『視えて』しまうから。
 それは、実の家族からも。
 そして彼女は、追われるように狩人になった。

 恐い。
 彼の思考は、その一色に染まり駆けていた。
 ギリギリで踏みとどまれるのは、彼もまた狩人であったから。
 その恐怖に全てを委ねる事が、狩り場では死を意味する事を知っている。
 しかしその恐怖の根元が、人間の世界特有のものということには、まだ気付かない。

 彼女が幾多の飛竜を下し、幾多の功績を上げても、誰も受け入れてはくれなかった。
 小さな村の農家に生まれ持つには、それはあまりに異質過ぎた。
 それでも家に帰ったのは、虚ろだったから。
 求めていたから。充足を、休息を、安息を。
「ねえ……君には何処まで『視えて』いるの?」
 零れた吐息に、縋るような声が混ざったのを聴いた。

 彼の腕に、足に、体に、首筋に、全身にまとわりつくような『視線』。
 相対する飛竜の覇気とは、その性質においてそもそも異質な物。
 全身を濡らす汗に対する嫌悪など比較にならない。
 『視られて』いる。逃げても無駄。それは、彼自身が一番よく知っている。
 全身を直に撫で回されているような、必要以上に濃密な『気配』。
「何、だよ……これ……」
 零れた吐息に、震える声が混ざったのを聴いた。

 異質な娘。彼女の父は徐々に酒に溺れていった。
 それでも耐えた。理解しようとした。
 その度に、父の様子はどんどんおかしくなっていった。
 そんな一瞬、ちらりと『視えた』彼の情景。
「そう……」
 零した吐息に、誤魔化しきれない嫉妬が混ざったのを聴いた。

 彼のそれは、半ば本能だった。
 一瞬でも考えたのは姉の安全。家に戻り、武器を取ろうかとも。

 できなかった。

 仕損じれば、次危険に晒されるのは間違いなく姉。
 教官が舌を巻いたと言っても、接近戦に不利な弓を選んでいる姉。
 彼女の背負う一対の、赤と緑の双剣を見た。
 今の彼に、彼女を無力化させる自信は無い。
 彼は今、「狩られる」側にいた。
「畜生……っ」
 零した吐息に、誤魔化しきれない恐怖が混ざったのを聴いた。

 ……彼女は振り上げた父の手に、剣を構えてしまった、本当に、反射的に。
 そして『視えて』しまった。
 刃が滑る感覚、食い込む感触、緩やかに流れ落ちる命。
 恐怖、苦悶、絶望、失望……そして、沈黙。
 その時、虚ろが満たされた気がした。
 数多の飛竜を切り裂いても、決して味わうことの出来なかった充足。
 その充足が唯一の拠り所となるのに、さほど時間はかからなかった。
「君は、何を『視せて』くれるの?」
 零した吐息に、暗い歓喜が満ちていたのを聴いた。

 彼の手は滑り落ちそうになった体を支え、痛みを訴える。
 這い上がろうとしていたその間は、間違いなく怯えていた。
 『眼』を背けたかった。いや、一度は背けた。
 それでも『視られて』いる。そして『視えて』いる。『視せられて』いる。
 理解することさえおこがましい歓喜と、欲望と、その後ろにある、「  」。
 十五年も生きていない彼に、それはあまりに生々し過ぎたらしい。
 鳥肌などという生ぬるいものではなく、全身を冷や汗がじっとりと濡らしている。
 ……喰われているような気がした。この恐怖も、不安も、何もかも。
 その時、飛来した何かが袖を浅く裂いた。
「ぃ……!」
 零した吐息に、少し涙が滲んでいたのを聴いた。

「あー、外れちゃった」
 もっとも、彼女にも当てるつもりも無かったのだけど。
 死角に入られてしまっている。投げナイフではまず当たらないような。
 彼女は初めて見た、自分とよく似た、でも全く違う人生を歩んだ子を。
 嫉妬と、羨望と、ほんの少しの憧れ。
 いつものように、ただ遠目に『視る』だけでは飽き足らない。
 その血を、その吐息を、その温もりを、その絶望を、この手に抱かねば納まらない。
 それほどまでに彼は真っ直ぐで……眩しく見えた。怯えている今でさえ。
「でも、私を見てはくれないのね」
 零した吐息に、暗い狂喜が満ちているのを聴いた。

「……あれ?」
 彼は不意に、唐突に解放された事に戸惑っていた。
 ここで逃げてしまえば全てが終わっていただろう。
 気配を殺し、脱兎の如く逃げてる事が彼にはできた。
 踏み止まらせたのは狩人としての本能。
 引く時追撃を受けぬよう行っていた。
 ごく当たり前に、『視て』しまった。
 彼女の『視線』を、その先にあるものを。
 そして、本当に逃げられなくなった。

 彼女が目を合わせたのは、籠一杯に薬瓶やら何やらを詰めた小さな少女。
 お使いか、それとも遊びの帰りか。私にそれを知る術は無い。
 『視線』を向ければ別だが、二人で手一杯。
 どちらも目を反らすには惜しい。

 どちらにせよ……今、この状況でそこに立っていたのは不幸だろう。
 彼女はやり方を変えた。
 『視て』くれないならそれでいい。
 『視せて』しまえばいいのだから。
 刃が滑る感覚、食い込む感触、緩やかに流れ落ちる命。
 恐怖、苦悶、絶望、失望、沈黙……そして、奇妙な充足。
「そう言えば、子供はまだだったわね」
 どうせ、逃げられなどしないのだから。

 彼は、そのようなものを『視た』ことは無かった。
 『視えて』しまった。そのドス暗い感情を、歓喜を、愉悦を。
 そしてそれらが自分に向けられている事を。
 数多の飛竜と相対しても『視える』事の無かった感情が『視えた』。
 当惑するのを止めた。彼女は『視えやすい』相手だと納得する事にした。

 そうしなければ、恐怖を押し殺す事が出来なかった。
 そうしなければ、狩る側に戻る事が出来なかった。
 そうしなければ、小さな少女が狩られてしまう。

 狂気に当てられ動けないと思っていた少女が、彼女の抜いた剣を認めて、踵を返す。
 走れ。その思考が反映出来ない。
 ……果たして自分は、ただ狩られるだけで済むのだろうかと。

「驚いたぁ……」
 彼女はまさか、逃げられるとは思ってもいなかった。
 それでもまあいいと。怯えていることに違いはないと。
 子供は敏感で、正直だ。少し気を当ててやれば、思った通りの方へ逃げていく。
 彼もまだ子供だ。大人になる一歩手前の、一番複雑で、不安定な。
 歓喜が身を震わせる。
 恐怖だけでは物足りない。怯えだけでは物足りない。
 どんな声で啼いてくれる? どんな心を、『視せて』くれる?
 小さな少女をまだ視界の端で捕らえている。
 彼の心に、火が灯るのを『視る』。
 彼女は今日、この出会いを、何かに感謝していた。

 恐い。恐い。恐い。恐い。
 今度こそ、本当に心をそれが支配していた。
 心臓が早鐘のように、痛いぐらいに高鳴る。
 恐怖に支配されてなお、その後を追わせるのもやはり、恐怖だった。
 当惑と困惑の中、二種の恐怖がせめぎ合っていた。

 狩られてしまう。殺されてしまう。まだ何も知らない、小さな子供が。

 逃げてもダメ。きっと『視える』。きっと、その無惨を『視せられて』しまう。
 きっと嘆く両親がいる。きっと嘆く友達がいる。
 そんな激情は、いやがおうにも、彼女のそれでなくても『視える』物だ。
 なのに、最後の一歩が踏み出せない。
 気に当てられるまま袋小路に走り込む少女。
 それを、屋根の上から見下ろしている彼。
 その一歩が踏み出せない。

(動け……動くんだ……)
 狂気の鎖は解けたのに、恐怖の鎖が邪魔をする。
(お前……それでもハンターか!!)
 瞬間、彼の視界で世界が弾けた。

 今日の彼女は、もう恍惚しっぱなしであった。
 『視る』のと直に見るのはこうも違うものなのかと。
 いや、実際誘った。こうなるよう仕向けたのは彼女だ。
 ああでも、空から舞い降りる姿への恍惚。
 彼の後ろにいる少女と共有するのは何ともしがたいものがある。
 でも、もう捕まえた。もう逃がさない。
 もう……自分のモノだと思っていた。

 目の前で笑みを浮かべる、火竜の鎧を纏う女性が嫌に美しく見えた。
 学のある人間なら背徳の美と言う認識を、彼は毒気の一言で片付けた。
 飛び出してはみたものの、どうするのかなど全く考えていなかった。
 相手は完全武装。彼は私服で丸腰。
 彼が臆病風に吹かれている間に、二人は袋小路に入ってしまった。

 逃げ場は無し。
 さあ、腹を括れ。

「この子だけでも見逃すのは、無しか?」
 笑みはそのまま。『視ず』とも解る、否定の意。
 相手は双剣。こちらは素手。かわしきれなければ……切り刻まれて終わり。
 逃げたいか?
 後ろに守らないといけないのがいるぞ。
 恐いか?
 また狂気が絡み付いているぞ。

 やっと、自分を『視て』くれた。
 彼女にはそれだけで良かった。

 それだけで、この空虚がいくらか癒されていった。
 ただ……そうしてくれているだけで、彼女は自分の存在を信じられた。
「やっとだわ」
 剣を薙ぐ。彼の横を掠めたそれが蒼髪を舞わせる。
 どうしようもない怯えの色。恐怖の色。
 少しずつ、少しずつ。あっという間に終わっては困るから。
 彼女は、その狂気を信じていた。
 でも、逃げられると面倒だから。
 踏み込む一歩。彼の体が、するりと避けた。
 それなら、小さな死を一つ。そう思っていた手が、不意に弾かれた。
(え……?)

 高く蹴り上げた足は無事に、彼女の両腕を捉えていた。
(ギリギリ……!)
 跳ね上がる両腕、バランスを崩す彼女。
 小さな子供の手を取り、投げる。もちろん、足から着地するように。
「その道を真っ直ぐ行け!!」
「うん!!」
 威勢のいい返事と共に、集会所へ走っていく子供。

(派手に転んだ割に、結構タフだな)
 恐いことに巻き込んだと言う罪悪感は空振りだろうかと、微かに笑う。
 剣は無い。身を守る鎧も無い。敵の獲物は双剣。
 狩り場では自らも振るう故に、彼はその特性をよく知っていた。
 彼の眼は確かに見た。彼女の剣が、赤く、狂気の色に染まるのを。
 鬼人化。アレは痛覚が鈍る。生半可な攻撃では動きを止められない。
 手数で攻めようものなら、刻まれる。
(逃げたら……ダメなんだろうな……)
 『視て』しまったから。獲物の恐怖と、絶望を望む、その狂気を。
 決めてしまったから。手の届く所だけでも守ろうと。
「来いよ……!」

 彼は逃がしてくれそうも無い。彼女はそれで良かった。
 彼は思うより強い。彼女はそれで良かった。
 すり抜け様に掻ききるのも、投げナイフでも、この子にはもったいない。
 その血も、その温もりも、全てこの手で。
 自分と同じだから。自分には無い幸せを知っているから。
 歓喜も、嫉妬も、混在してしまってもう私にも解らない。
 ただ……欲しいのとは違う。ただ……屠りたいのとは違う。
 ただ、惹かれていた。
 人間にはそれ以上の事があるのに、彼女はそれを知らなかった。

(ひょっとして……俺は飛んでもない馬鹿をやっていたんじゃないのか?)
 彼は覚悟を決めていた。本当は触れることさえ嫌だった。
 その一挙一動を、ただ『視る』。
 吐き気がする。冷や汗が思い出したように吹き出す。
 その狂気をかいくぐって『視た』彼女は、ただの人間だった。

 相手は双剣。こちらは素手。その差を「経験の差」で埋められるのでは?
 今なお苛むように漂う暗い欲望、暗い歓喜、それに飲まれさえしなければ。
 それは飛竜の時と、何ら変わりはない。
 同じ人間で在れば、その動きは分かり易い。
 ただ……その人間の暗い感情が、ここまで恐い物と思っていなかったようだ。

 幾多の狩人を手に掛けてきた。
 幾多の命を掻き消す悦びに身を預けてきた。
 時にその武具を奪い、そうして彼女は、強くなった。
 少しは楽しめる。その程度だと思っていた。
(何……?)
 当たらない。乱舞も。フェイントの一つも。
 ゆっくり刻むつもりでいた。それでは当たらぬと思い致命傷から入ろうとした。
 もちろん剣閃に押されてか踏み込ませていないのは事実。押していると思っていた。
 しかしこのペースでは、この袋小路から出られない。
(ああ……そうか……)
 狂気に目覚めてから二、三年ほど。彼女は漸く、己の望みに気が付いた。

 死の充足を望んでいたのは……他ならぬ彼女自身だった。

 刃の暴風をかいくぐる彼の思考の中に、常に恐いという意識があった。
 彼女はこちらの動きを『視る』事が出来ない。
 例えば同じ飛竜の突進が走りきるものか踏み止まるかを判断するような。
 彼我の実力は己に分があると解っていて、なお恐れていた。
(黒ディア怒らせた方がまだマシ……)

 歓喜という感情が、怒りや恐怖を圧倒するとは思わなかった。
 その感情はいまだ、ねっとりと彼の周りにまとわりついている。
 胃の中身を全部吐きだしてしまいたくなるような嫌悪。
 鬼人化は長く続かない。発動と解除のスキ。そこに踏み込むのが、恐い。

 暴風が止まる、だらりと両腕をぶら下げた彼女。
「……っ」
 『視て』いる限り毒気に当てられ、『眼』を逸らせば刻まれる。
 その葛藤を何度繰り返しただろう。
 彼女の手が上がる。その手に、剣がぶら下がっている。
「……いらない」
 赤い刃。丸腰の自分。まとわりつく狂気。
 目が合う。剣が振りかざされる。
 落ち着け、怖じ気づくな、相手は、ただの人間だ。ただの……!
「―――――ッ!!」

 彼女の狂気に、彼は拒絶をもって答えとした。

 ただの人間だった。戸惑いを捨てろ、躊躇いを捨てろ。
 やもすれば無茶やヤケに近い勢いで突き出した掌打が彼女の胸元に吸い込まれる瞬間。
(……え?)
 『視て』しまった。『視えて』しまった。
 彼女の狂気。彼女の過去。彼女の望み。

 理解することさえおこがましい歓喜と、欲望と、その後ろにある、「孤独」。

 その原因は、私の『視線』。

 それに気付いて、慌てて『眼』を閉じた。

−ぷつん−

 ……その瞬間の世界は、虚無の闇。
 私の目はもう街並みの上になく、私の耳にもう鼓動は聞こえず。

 ……ひょっとしたら、もの凄くもったいないことをしたのかもしれない。
 うっすらと開いた私の肉眼に、いつもと変わりない景色が映る。
 濃い雲と、そこから降り注ぐ陽光。
 遙か高みから見渡す世界が見える。
 人間に気付かれないようになんて、娯楽の為のルールではないか。
 私の『視線』に気付くような人間なんて希少だ、それなのに目を離すなんて。
 それに……逆に彼女が何を『視た』のか、よく『視て』おきたかったのに。
 やっぱり、二人も一度に『視る』のは私でも難儀か……。
 もう意識は無いだろう彼女の代わりに、彼を『視る』事にした。

 ……うまく見つかるといいのだけど。

 数秒を要したが、何とか見つけた。
 彼の目の前で、大の字に倒れている彼女。
 女性としてはいささかはしたない姿に、彼も気を取られるような状態ではなかった。
 疲弊、疲労、困惑。
 張りつめた緊張から解放されて、糸の切れた人形のようにへたりこんでいる。
 とりわけ……最後に『視て』しまったものは強烈だったらしい。

 当然だ。
 人にそこまで『視え』たら、彼等の築き上げたルールがひっくり返る。

 彼女は『視え』易い人間だったからと、無理矢理にでも納得するのに必死でいた。
 ……それが、探していた数秒の間の事。
「お……遅ぇぞ……ナイトのおっちゃん……」
 今は、駆けつけた男に軽く愚痴を零している。

 あの子供が、彼に駆け寄る。
「お兄ちゃん、ありがとう」
「……今度近道するときは、気を付けろよ」
「うん!」
「よしよし」
 ……消えた。
 疲弊、疲労、困惑。子供の笑顔で綺麗に消えた。
 安上がりな生き物とは思っていたが。
 後ろの男……恐らく子供の父親の、嫉妬混じりの視線に気付かずに。

 そしてすっかり忘れて立ち上がろうとして、そのままこけた。

 疲労が消え、彼女が連れて行かれ、そうなってやっと、困惑が戻ってきた。
「……あの人、どうなるんだ?」
「然るべき裁きを受けるだけだ」
 あれを『視た』時に感じた、哀れみの感情と一緒に。
「気になるのか?」
「いや……自殺志願者裁いてもなあって……」
 男の気遣いは丁重に断った。
 家が近い、そう誤魔化して。
(……あれ?)

 おや、気付かれた。

 ……当分、彼を『視ない』方がいいかもしれない。
 勘違いが確信に変わられると色々と面倒だし……面白く無くなる。
 さて、有り余るこの時間を何で潰そう?
 ああ、そこの鋼龍。ちと暇つぶしにつきあえ。
 何? 嫌だ?

 ならお前の頭上に、カミナリ落としてやろうか?

『彼と彼女と、祖のワルツ』

......To be Countinued?