「先生ーっ! また出たのニャーっ!!」
「先生は止せと言ってるだろう! ミハイル、手綱!!」
「はいニャ!」

 太陽の真下、一面を覆い尽くす金色の大地。
 砂煙を上げて駆け抜ける、二頭立ての真っ白ホロの馬車。
 それを追うもう一つの砂煙。
 手綱を引くのは深紅の虎猫。
 迎え撃つは白衣のガンナー。

 そして彼等の与り知らぬ彼方で、刀を振るう娘が一人。

「馬ー鹿ー野ー郎ーっ!!」


   ――『愛しの君はディアブロス』――

(……これで何体目だ?)
 白衣に似せた白い皮鎧を纏い、腕を鋼の籠手で固めた男は自問する。
 これまで退けてきた角竜の数は強弱問わず五十を越え、望みもしないのにギルドから「双魔」の称号を許されてしまった。
 慣れとは恐ろしいもので、当初は音爆弾に頼っていたが、次は地中に潜ろうとしたところに徹甲榴弾を撃ち込み、今や車上であれば地中のそれに撃ち込めるようになってしまっている。
 紫の瞳がスコープを覗き込む事はない。
 今、男の中では彼我の相対速度と、馬車の揺れと、弾速とが複雑な数式を組み上げている。
 もはやただの癖となったそれが答えを出す前に、彼は引き金を引く。

 砂煙に紛れた小さな砂塵。

 それを確認する事なく拡散弾の装填を済ませ、馬上の相棒を振り返る。
「拾うのは、いつもの場所で」
「ぐっどらーっく」
 跳躍。前方で炸裂する轟音。
 それに劣らぬ悲鳴を上げ、大地に捕らわれる双角竜。
 速射機能に任せた連射。空中で全てを済ませ着地と同時に装填に入る。
 これは「ハンターの」仕事だろうと零すのは、とうの昔に止めていた。

 周囲で砂塵が舞う。あれさえいなければもう少し強固な兜にするのだが。
(懲りない連中だ……)
 視界の端から迫る生臭い砂弾を紙一重でかわす。

 砂の海を走るヒレ。
 死闘にはたかる癖に真っ向勝負はしたがらない。
 狩人から敬遠されて、餌を求める角竜が群がるのも解らなくは無い。
 だから余計に狩人が敬遠する。通る人間には良い迷惑だ。
(ついでで片付けるかミハイルを待ちながら片付けるか……)
 幸い、前述の理由のお陰でキモの値段は高騰。
 結構な収入になっているんだよなあなどと考える。

 戦闘二割、相棒の無事二割、積み荷が無事に行き渡るかが五割に雑念が一割。
 彼方で吼える角竜を眺めながら、跳ねた魚竜の三角頭を照準に収めようと……。

 直後、彼の真下からそれが飛び出した。

「っ!?」
 弾き飛ばされ、砂上を転がりながらも見えた、一際大きな黒いヒレ。
(こいつらを……同時に?)
 迂闊だった。下々の被害を、主が放置し続けるハズがない。
 幸い、執拗に攻撃してくると言うことはない。
 ……機会を窺っているとも言えるが。
 厄介には違いなかったが、おかげで角竜に目を向ける余裕はあった。

 そこには、砂漠のフルフルよりあり得ない光景があった。

 角竜の片翼が無い。

 角を折った覚えは無い。

 打ち込んだのと言えば車上からの一撃ぐらい。

 少なくともさっきまで二本あった。

 そう思っていたら片足がちょっとあり得ない方向にずれた。

 男と砂竜。二人はその光景を、まったく同じ思いで見つめていた。

 砂竜は尻尾巻いて逃げ出し、男はそれすら叶わなかった。

 悪夢、あるいは奇跡の主は、角竜の丁度真上に現れた。

 細く、しなやかな、ここからは針のように見えるそれが突き立てられる。

 赤く染まる砂と錆の臭いに、男は意識を手放した。

「……っとちょっとーっ!?」

 間際に聞こえた女の声は、幻聴だと言い聞かせながら。

 ……気絶していた時間はそう長くなかったと思う。
「ん……?」
 何かの日陰。
 横目に見た何かの影が真下に落ちていた。

 ミハイルが引き返して来るまでにはまだかかるだろう。
 体の上を流れる冷ややかな空気は、オアシスに近い洞窟のものだろうか。
 瞳を開けると、心配そうに自分を覗き込む、蒼い髪の女性がいた。
「……気が付いた?」
「え、ええ……あなたが?」
 可憐な顔と裏腹に、纏う黒鎧の質感は砂漠の岩肌。
 分厚い装甲と肩から伸びる二本の角は、無骨以外の言葉が思い当たらない。
 ハンターには、まあ良くある事。

 場所は、どうやら自分が思ったとおりの場所らしい。
「ええ、あなたよね。向こうの村と行き来してる先生って」
「はは……先生って言われるほど偉くはないんだけどね」
 そう、と、少し淋しげに呟く彼女の目に憂いの色が見えた。
 ……それが凄く魅力的に見えたとしても、尋ねないのが礼儀だろう。

「でも良かったぁ……」
 何か話題を逸らそうと思ったところでふと思い当たる。
 この見覚えのある砂色の屋根は何だろうか?
 そして、あの時自分が見た光景は何だろうか?

「心臓麻痺とかじゃなくって……」
 全てに合点が行った瞬間、男は再び意識を手放した。
「えっ!? ちょっと、しっかりしてーっ!!」

 ……その瞬間、彼は憂いの理由を知ったのである。

 気を取り直して、このまま待っているのも何だからと、ガレオス狩りを始めた二人。
 どうせミハイルが戻ってくるまでどうにも出来ないし。
 二人なら角竜……ディアブロスが出ても大丈夫だろうと思っていたが……。

 彼が砂の海を走るヒレに徹甲榴弾を撃ち込む。
 轟音に跳ね上がっている間に装填、落下を狙って速射。
「このぐらいなら、弾は足りるかな」

 彼女が砂の海めがけて大上段から振り下ろす。
 そのまま何事も無かったかのように剥ぎ取りに入る。
「……即死?」

 弾が足りる所か余る勢いである。

 先ほど逃げていったドスガレオスも無事に討伐。
 またディアブロス共々出てくる可能性はあるが、明日ぐらいまでなら大丈夫だろう。
「今日はありがとうございます……えっと」
 かれこれ四時間。名乗らずに過ごすには長い時間が経っていた。
 名前を尋ねる間にも、彼女の足下ではチャチャブーが地中へ逃げ出している。
「僕はサイラスと言います」
「私は……」

「せぇーんーせぇーえーっ!!」
 
タイミングが良いのか悪いのか、そこへ響くミハイルの声……。
 馬車はまだ豆粒ほどと言うのに、だだっ広い砂漠なのによく響く。
 そこからざざざーっと真正面に止まるのに、さほど時間はかからなかった。

「あら、やっぱり先生だった」
「お邪魔でしたかニャ?」
 ……この赤虎、彼女を見るなりコレだ。
 そう言えば、彼女はいないのかと随分聞いていたような。
「ミハイル、だから……」
「ニャハハ。ところで可愛いお嬢さん、お乗りになりますかニャ?」
 叱るのは、村についてからにしよう。
「私はこのまま街に戻るから。御免ね」

 遠のいていく馬車に向かって自分の名を叫んだ彼女もそのまま街へ。
 街の喧噪を通り抜け、真っ直ぐ酒場に向かう。

 理由は一つ。

「エミィ〜っ! えうぅ〜……聞いでよぉ〜」

 ヤケ酒の為である。

 相手は長い金髪を一本に纏めた、翼のモチーフをあしらった白鎧の女性。
 エミィ、ことエミリアが彼女の髪を優しく撫でる。
 ……酒を飲みながら。
「はいはい迷える子羊よ。ングング……我が教会にどんなご用か?」
 フルフルS……ガンナー用のそれはシスターと言うより天使のそれに近い。
 酔いどれ天使がありがたいかは別として。
「男の人に失神されだぁ〜っ!!」
「とうとうそこまで行ったか……」

 そもそも彼女……ザイン=スフィーダが冒頭で嘆いていた理由もそれである。
 いや、失神にまで到ったサイラスはちとあんまりだが。

 先日、彼女は恋を一つ失った。その時言われた台詞がこちら。

「素手でナイトより強いってあり得ないから!」

 実際、下級ナイト程度なら四,五人は素手でのせる。と言うかのした。
 暴漢を殴り倒していた所、在らぬ誤解を招いて実行。その翌日の破局だった。
 何か怪しいと思いエミリアが調べた所によると、その男もナイトだった。
 しかも十代半ばほどの子持ち。妻、健在。
 失恋回数が年齢に届きそうなザインだったが、否、だからこそ親友として、エミリアは男に問いつめたのだ。

 曰く、妻よりザインにばれるのが恐かったんだそうな。

 幸い、ザインはまだ乙女で、その男も権力で追い返せる立場にありながら土下座までして詫びたことでそれ以上の追求は止めた。
 そしてその事実を傷心のザインに伝えようか悩んでいる。
「そう言えばさ、その人とその後どうしたの?」
「それがね、もの凄くいい人でね、すっごく申し訳なさそうな顔させちゃってね……」
 年頃で、童顔も手伝い可愛らしい娘が、荒くれ共のいる酒場で失恋に泣き咽んでいる。
「その人落とさないと、後がないんじゃないの?」
「なんでそーなるのよ〜っ」

 だが、そこを口説こうとする不届き者は、ただの一人もいなかった……。

 時間は少し遡る。
 砂の海をいく馬車の上。

「角竜婦人?」
 車上のサイラスがミハイルに事の顛末を話したとき、当初は笑われると思っていた。
 所が、意外にもうんうんと頷いて話を聞いてくれたばかりか……。
「ディアブロスの羽を叩斬って日除けにするなんてそうはいないニャー」

 実は良いとこのお嬢様だったとか、継母に苛められてたとか。
 家事でついた筋肉生かしてハンターになったとか、実に詳しく喋りだした。

「哀れんだのは天使様、所が世は狩人の時代。舞踏会より武闘会。ドレスの代わりに鎧を与え、馬車の代わりにネコタクを」
 まあ、眉唾物と言ってしまえばそれまでだが。
「王子の代わりに空の王。踊り明かしてそのまま帰らなかったとニャ」
「……その情報網を、薬の搬送に使えないものかな?」
「ちなみに、僕等の間ではマタタビ婦人で通ってるニャ♪」

 猫の戯れ言から手元のカルテに意識を移す。
 新たな感染者はここ一ヶ月無し。薬の流通も概ね安定。
 ただ……。
「駄目だったのか……」
「……先生、解ってると思うのニャけど」
 出来る限りの事はする。
「あそこで角竜を迎え撃つわけにはいかないのニャよ……」
「絶品スープ、飲めなくなってしまったか」
「レシピだけ預かって来たのニャ……これが一番の財産だって……」
 出来ることには限界がある。
 救える命と救えない命。それを思い知らされるのが、辛かった。
「でももう大丈夫ニャ♪」
「そうだね……確かに心強い」

「しかし翼切断ニャんて噂だとばっかり思ってたけどニャー」
「いや、出来ないことは無いんだよ」
「ニャんと!?」
「剥ぎ取りナイフがグラビモスの甲殻を通るのと同じ原理だ。筋繊維の方向とかを考慮して、太刀筋を微調整すればいい」
「それは、言うほど簡単に出来るのニャ?」
「微調整に必要な腕力が桁違いだけど……いや、技術と集中は更に並外れか」
「それはそれで化け物……ニャゴッ!?」
「失礼なことを言うんじゃない」

 数日後の砂漠、砂竜を切り捨てる娘が一人。
「ウラァァァッ!!」
 当の婦人は、荒れに荒れていた。

 あのナイトの家族構成を、結局知ってしまった。
 妻に説教されているのを見てしまったのだ。
 幸い、険悪な雰囲気になることは無く、相手の奥様もいい人だったのだが……。

「武人としての貴方には興味があるわ、角竜婦人」
 この一言で手合わせに至り。結果、圧勝。
 いや、奥様もかなりの手練れでつい全力を出してしまった。
 その後に慰められる始末……彼女も相当苦労したと話していた。
 圧勝してしまった自分はどうしろと言うのか。
 苛立ちに乱れた集中はしかし、角竜を袈裟切りで両断するには十分だった。

 そして視界の向こう、見覚えのある二頭立ての馬車。
 馬の横に誰かが倒れているようだった……。
 まさかまさかと寄ってみた、彼女がみたのは……。

「先生、血が苦手なのは解るけどそりゃ無いニャ」
「へぇ……苦手なんだ、血」
「自分で措置ができるようになるまで相当苦労したのニャ♪」

 ……案の定だった。

 ホロ馬車の中。
 中心にサイラスを寝せ、その横にザインがいる。
 ミハイルは手綱を引いている。

 ディアブロスの解体にやってきたアイルー達が呆然としていた。
「最初に倒れられた時は恥ずかしくて耳まで真っ赤になったニャ〜」
「お前は元から真っ赤じゃないか……」
 その前に、倒れたサイラスをベースキャンプに送ろうかで一悶着あった。
「うーん……あれは、やっぱきつい、よね……」
「いや、お陰で今日は揃って到着できる」
 血の気は引いているが、それでも見せてくれる笑顔が嬉しかった。

「そう言えばみーちゃんて馬車引けるんだね」
「みーちゃ……え、まあ。剣の心得も少々ニャ」

 決してアプローチを受けたことが無いわけではない。
 彼女を巡り狩りの腕を競った二人が、その次元の違いに逃げ出したなんて事もあった。
 でも、この人は怯えない。
 自分の力を冷静に見てくれて、その才を誉められたのは初めてだった。
 そして今、自分の力が必要とされている。それだけで良いではないか。
 エミィが言うようにならなくったって。そんな事を考えていた。

 村との行き来に同行するようになるまで、さほど時間はかからなかった。

「先生また出たニャーっ!」
「だから……っ」
「ザイン先生、ニャ」
「拾うのはいつもの場所ねー」
 そうして会ううちに知る。この人はとても真面目で、少し気の弱い人。

「ザイン、布団をありったけ持って来て!! あとお湯! ミハイルは薪を頼む!!」
「はいっ!!」
「ニャーっ! こう言うとき猫っ毛は邪魔ニャーっ!!」
 だけど、医師としての仕事に、信念と誇りを持っている人。
 優しさに根付いた強さを持っている人だった。
 気弱な顔が急に険しくなるのは少し恐くて、頼もしかった。

「泣かないで、ね。お礼、言ってただろ?」
「でも、でも……」
「ニャア……」
 救えた命もあった。救えなかった命もあった。
 誰かが完治したときは共に喜び、亡くなったときは共に泣いた。
 彼がここに来る数日前、ミハイルが妹を亡くした事を知った時も泣いた。

「そういや何でマタタビ投げるニャー?」
「え、あ、みーちゃん背中に乗るのは……は、はくしゅっ」
「グガアアアアアアアアアアアアアアッ!?」
「出たニャーっ!! ていうかいつの間にいたニャーっ!?」
「その前に音量が明らかに足りないって!!」
 角竜婦人と双魔の僕と言えば、ちょっとしたものになっていた。
 そのぐらい、二人と一匹が一緒にいるのは、当たり前になっていた。

 そんなこんなで更に二ヶ月が過ぎ……。

「で、ザインちゃん何やってんの?」
「えぅえぅ〜……」
 ハンターズギルドの酒場。
 エミリアの目の前で、先週まで散々のろけていたザインが咽び泣いている。
 それだけならエミリアにとっていつもの事だったのだが。

 一度サイラスと一緒にいるのを見たことがある。
 穏やかで、落ち着いた、気の弱い父親というのがしっくりくるだろうか。
 既に妻子持ちでもおかしくないとか、貞節に堅すぎてとか、そんな事と思っていた。
「ひっく……独り身。みーちゃんがくっつけくっつけ言ってたから……」
 なるほど。ザインとは丁度良いかもしれない。
 ……口に出して言うと、角竜婦人の一撃が来るので言わないが。

「お医者さんって、一番辛いときに、一番真剣に考えてくれる人でしょ?」
 職業柄、患者に恋心を持たれてしまうことは少なくない。
 それに対し、相手を気遣いつつも、冷静に対処できる人だったと言う。
「男の人が一人亡くなったの……奥さんがいたわ。その、三日ぐらい後かな……」
 浮かぶのは最悪のパターン。穏やか故に、心を抉るパターン。

 怒りの表情を見てとったのか、ザインはそれを否定する。
「もちろん、ちゃんと断ったのよ……」
 事は、エミリアが思うよりも、ずっと深刻なものだった。
「私……物陰にいて……喜んじゃったの……」
 その時ほど、ザインを不憫に思った事は無かった。
「彼に見られては無いけど、人が……一人、亡くなってるのに……」
 継母になじられ、
「あの人は、本当に命と真剣に向き合ってるのに……」
 幾多の男に逃げられた。
「こんなんじゃ駄目だよ……」

 その名も猛き角竜婦人。
 その心がどれほど傷だらけで繊細かなど、余人に知る由も無く……。

 ザインがサイラスと別れてから二週間。
 ハンターすら寄り付ぬ小さな村の小さな仮病棟では……。
「よう先生、まだ生きてるニャア?」
「……うん」
 ドス暗いオーラを発散するのがすっかり日課になってしまったサイラスがいた。
 ここまで落ち込むと苦手でも酒が飲みたくなるものだが、それをしようとはしない。
 医師として、患者の命を預かる立場なのに酔って出るわけにいかない。
 あれからもザインは砂漠の砂竜と角竜を狩っているらしい。
 だが、三ヶ月を共にして移動時刻を熟知していたのか、鉢合わせる事は無かった。

「病魔も逃げる勢いだよね」
 力仕事に関しては、最近やって来た黒髪の少年が請け負ってくれている。
 まだ十代半ばほどでありながらヴァルハラを振るうこの少年。
 武者修行がてら「角竜婦人」に会いに来たと言うこの子も、やはり本懐を果たせずにいた。

「……実際もう何人かの患者さんだけなのニャ」
 後少しで治りそうな患者が数名。
 妹の為、妹が世話になった村人の為に長らく共にいたミハイル。
 その若さを武器に、基本的な措置の一通りを吸収してのけた少年。
 二人は自分達に任せて会いに行けと幾度と無く進めたが、サイラスが受け入れる事は無かった。
 それは信念であり、誇りであり、意地だった。

 泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑う。
 医師として、押さえていた心を少しだけ解放してくれる存在。
 医療に奔走する中で、その少しにどれだけ救われていた事か。
 在らぬ誤解を招いてしまったのだろうか?
 今は、それを表に出す事すら許されない。

「エイン婦人になりそこねちゃったわけだよね、その人」
 当初は顔を真っ赤にして少し元気になれた少年の言葉にも、今は落ち込むばかりである。
 それでも、患者の前に立つときはその全てを振り払う。
 覆い隠すと言った方が正しいのかもしれない。
 ただでさえ不安になっているのだから、それ以上を与えてはいけない。
(ザイン、今どうしている……)
 そして今、彼女の居ないことが、何人の人間に不安を与えている事か。
「先生、急患っぽい」
 少年の声に遅れて、誰かの走る音が聞こえてきた。
 また、医師の仮面を被らねばならないらしい。

「これは……」
 患者は村一番の元気っ子。突然高熱を出して倒れたと言う。
「何か、悪い病気なんですか?」
 症状は分かり易いものだった。虫を媒介としたもの。
 比較的良く知れた病だが、我慢していたのか、大分進行している。
「感染症では無いけど……ミハイル、薬のストックは?」
「こちらになりますニャ」

 媒介となる虫がいるのはずっと奥地だ。子供の足で行ける場所にはいない。
 僕等の誰かが持って来たか?
 いや、煙玉や消臭玉で虫落としを欠かした日は無かった。
 原因よりもまずは、リストに薬が無い事。
 幾つかの薬を組み合わせれば一時凌ぎぐらいにはなりそうだが……。

「これから用意する薬を飲ませて、それで少しは収まるはずです」
「少し……って」
「この付近で採取出来る保証がない。街まで行った方が確実だ。ミハイル」
「はいニャ!」
 少年ハンターが何か言おうとしていた気がする。
「君はここを頼む」
 今は一刻の猶予も無いし、万一があったとき一番冷静なのも彼だ。

 夜の砂漠を早馬が駆ける。
 周囲へ視線を走らせているのは、何も砂竜の襲撃を警戒していただけではない。
 その視線が探していたのは、黒い影。
(何を期待しているんだ、僕は……)
 だから気づけなかった。あまりに生物の気配がない事に。
 街への道のりに、少し火薬の臭いがしたことに。
「所で何でオイラニャ?」
「措置自体は簡単だからネコタクで先行」
「酷使ニャ!!」

 幸い、街ではすぐに薬を用意してくれた。
 角竜婦人の精力的な仕事ぶりに、一枚噛んでいたことも大きいのかもしれない。
 聞いてもいないのに彼女の居場所を教えてくれた。
「先生?」
「患者を放り出したら、それこそ会わせる顔がない」
 全力疾走。
 丁度通り道。
 嫌でも顔を上げてしまう。
 自分の馬鹿さ加減を笑っていた。
 でも、探していた。

 そして、その期待は叶えられた。

「あれだけで良かったのニャー?」
「茶化すな、行くぞ!」
「ニャハハハ〜元気なったニャー♪」
 夜明け前。やたら元気ではた迷惑な二人の声が大通りを駆け抜けた。

(単純……)
 その余韻が過ぎ去った頃、宿の一室で転げ回る角竜婦人。
 手を振ってくれた。微笑みかけてくれた。それだけでこれである。
 呆れて眺める酔いどれ天使。
 本当は、今日辺り会いに行けと叱責するつもりだったのに。

 武器の手入れに余念がない。
 研ぎすぎて太刀になってしまった大剣が折れる日も近いか?
 ピアスなんて教官の土下座と共に受け取った奴一択だろうに。
 酒場に降りたら騒然としていた。
 ここ数日の落胆がこう変わると、かえって恐い。

 上機嫌で街の出口へ向かったザイン。
 エミリアが追いつくと、何故かその場に座り込んでいた。
 ぺったりとへたりこんで、肩を振るわせて……。

「今度は、何?」
 ここ三ヶ月、ザインの感情が最も起伏を繰り返した時期と言っていいだろう。
「みーちゃんが……みーちゃんが死んじゃうーっ!!」
「ちょ、まっ!!」
 振り向き様に角竜婦人の腕力で揺さぶられるエミリアは、この日三途の川を見た。
「オイラより、先生が危ないんだニャア……」
「……え?」
 あげくそのまま放置。
 厄日と言いたいがそれは抱きかかえられた赤虎も同じだろう。
 そしてさらなる災禍に、彼が巻き込まれてると知れば……。

 その名も猛き角竜婦人。黙っているわけがない。

「マスター! 馬車か早馬頂戴っ!!」
 扉の修理費、3000ゼニー。
 零れた料理と酒代、500ゼニー。
 テーブル代、4000ゼニー(安物)。
 薬代1000ゼニー。

 客と店の安全、プライスレス。

「い、いや、早馬は先生ので最……」
「まどろっこしいニャ! ネコタク寄越すニャ!!」
 マスター顔面打撲治療費、50ゼニー。
「みーちゃん、一人で!?」
「このミヒャエル・シューミ、甘く見てもらっちゃ困……ちと重いニャ」
 ネコタク、10000ゼニー。
「マスター、胴鎧あずかっといて」
「え、ぎゃーっ!?」
 後に残ったのは、壊れた扉と、テーブルと、零れたいくばくかの料理と、ディアブロUメイルに潰されたマスターの姿。

 そして同じく残されたエミリアは気が付いた。
 愛用のクイーンブラスター、16500
ゼニーなり(材料費抜き)。

 このまま鎧を質に入れたくなったが、命が惜しいので止めた。何より足りない。

 金色の海原を、角竜もかくやの砂煙が一つ。
「み、みーちゃん、大丈夫?」
「大丈夫ニャーっ!! 先生乗っけなかったオイラのせーニャ! 足ぶっ壊れても構うもんニャーっ!!」
(あの人に外科手術させる気かね君は?)
 アレルギー故苦手だったネコタクも、この速度では原因がまず吹き飛ぶ。
 薬を届け、戻りがけにサイラスを拾う予定だった。
 彼が乗って来るだろう馬は少年に返させる予定で。

 一人と一匹が見たのは、数頭の馬に追われる一人の姿。
 少年が援護に走り、ミハイルは強走薬を飲み干して街まで走った。
 足は既に限界。説明の間に五回は舌を噛んだだろうか。
 弓の事を言及する余力はあるまい。

「返答はいらない。連中を見つけたらアンタはその勢いで村に戻って、鷹を飛ばしな」
 そう。思えば三ヶ月前、何故あんな所に下級とは言えナイトが四、五人もいたのか。
 知っていたのだ。不埒な輩が闊歩していることに。
 監視しつつされつつ、モンスターのお陰でその均衡が保たれた。
(夫婦で任務についといて私は行きがけの相手だったってわけ……)

 それらが駆逐され、そこへお世辞にも強そうには見えないサイラスが通ったのだ。
 一人、しかもハンターで医者。金目のものは期待できるだろう。
 ……側に角竜婦人がいなければ。

 黒い感情がこみ上げる。
 あの男にも、サイラスの側を離れた自分にも。
 そして、彼に目を付けた不届き者にも。
 血の色も浮き出よう。口から黒煙を吐きもしよう。

 砂丘を駆け抜ける際に台が浮く。
 問答無用でボウガンを撃つ連中をザインは敵とみなした。
 慣れない武器に、本来の用途から外れた防具に不安はない。
 ただ「五人を」狙って、撃てばいい。
 研ぎ澄まされる精神。宙を舞う彼女の世界は、時を止めた。
 それが彼女の武器。
 並外れた集中。彼が教えてくれた事。
 剛腕、技術、全ては副産物でしかない。
 彼女は体現していた。

−極まった力は万能であると−

 五人が倒れるのを確認する。六人目がネコタクに轢かれたのを確認する。
 火薬の臭いが流れてきたのは、あの、洞窟の向こうのオアシス。
 その向こうから、何かが爆せる音が響いた。
「サイ……!」

 その光景に、一瞬は絶望しかけた。
 岩壁のヒビの前でうなだれるサイラス。
 その横で、彼のボウガンが無惨な姿を晒している。
 傍らの女が、ガンハンマを弄んでいた。幸い、気付いていない。

 女としての怒りが頂点に達しつつあるザインに。

 何も知らぬ女がサイラスの顎に手をかける。
 何処までも誠実な、異性に関してはことさら誠実な男に何をしようというのか。
 頂点を越え臨界を越え、黒煙の温度が口元にまで感じられるようになったとき……。

 ガ……ッ!

 女の唇は彼のそれを捕らえる前に、頭突きの返礼を受けた。
 後ずさり、うめく女。顔を上げたサイラスの眼光は、鋭かった。
 彼の両腕を守るのはバトルU。
 医師としてでなく、男として、ハンターとしての、戦う意志。
 誇りと意地に根ざした、途方もない諦めの悪さ。

−その心意気や、良し−

 その光が、武人としてのザイン・スフィーダに火を付けた。

(ゲス一人、護衛二人、多分死角に坊やともう一人……)
 突然の乱入者。女が認識するよりも先に護衛を片付ける。
 そいつがサイラスの髪に手をかけた頃、ザインは既に肉薄していた。
「ッラアアアアアアア!!」
 女として、武人として、双方の怒りに火のついた彼女を止める術は、無い。
 標的の顔面を砕き、崩れ落ちかけた彼を支え、姿勢を正そうとしたとき、
(あれ?)
 体を支える力が、抜けた。
 左腕の関節に妙な痛みが、じわりと広がる。
(あ……投げナイフ……)
 胴鎧を外した事を悔やむ前に、抱えた体重が動く。
 丁度抱きかかえられる体制になって、自分達を狙うガンナーの存在に気付く。
 それ以上、意識は持たなかった。

(駄目……)

 ……サイラスが覚悟していた痛みは、いつまで経っても訪れなかった。
 命に代えても守ろうと思った人は、腕の中で寝息を立てている。
 恐る恐る振り返ったサイラスが見たのは、倒れたガンナーと、弦の切れたボウガン。
「あー……格好悪ぃ……」
 そして上半身を起こしたまま、ヴァルハラの先端を弄ぶ少年だった。
「いや、君が居なかったら……」
 ここまで逃げ延びることは叶わなかった。
 きっと今頃……そこに到って思考を止めた。
「傷物にされてた?」
「勝手に人の考えを読まないでくれ……」
 幸い、ザインに刺さったナイフに塗られていたのは、一般的なネムリ草の汁。
 傷の方も回復薬ですぐに塞がる程度のもの。
 すこし揺さぶれば起きるのだろうけれど、何となく、それは惜しかった。
 未だ抱きかかえられたまま、先ほどの猛攻が嘘のようだ。

 ギルドナイトが到着するのに、それから一時間を待たなかった。

 ただ、その駆けつけた人間が問題だった。
「大丈夫か!?」
「お父さん……」
 少年の父。そして、その男の声に腕の中のザインが身じろいだ気がする。
 いや、確かに動いた。なのに、何故か声をかけられない。
「オイ、そこの無能」
 ……彼女の手際と比べたら大半がそうなる。

 その名も猛き角竜婦人。タイミングが悪かった。

「ザ……ザイン……?」
 ゆるりと立ち上がるザイン。驚いたように青ざめる男。
 少年がここから離れるように促すが、足が固まったように動かない。
 歩を進める彼女の足取りは、確かに良家の娘のそれだった。
「装備無しじゃ解らない?」
「あ、いや、そのー……」
 まあ世の中、立場と人格が、善し悪しに関わらず水準に達しないケースもあるわけで。
「貴様は一般人の保護が先だろうがーっ!!」
 綺麗に決まったアッパーは、そのまま男の顎を捕らえ、そのままオアシスへ叩き落とした。
 その時確かに、双角と黒煙を見たような気がする。

 それから一ヶ月。

 ただの一撃で済ませたのは、奇跡に近い。
 だが、一撃は一撃。
 やってしまった事には変わり無い。
(よりによって、彼の目の前で……)

 往来の安全が確保され、サイラスが自ら補充に行く必要も無くなった。
 いや、もう彼がそこにいる必要も無くなっていたのだが。
 奥様にはよくやったと笑い飛ばされた。
 息子からは冗談半分にお母さんと呼ばれて、ちょっとつついた。
 私服で人混みに紛れてるナイト達が苦笑いをしていた。
 サイラスはもう暫く、村の様子を見てから発つのだという。
 自分は街に戻った。
 流石のエミリアにも愛想を尽かされたか。(弓を行方不明にしては当然か)
 あの時ほど凹んでいたわけではなかったが……少し、淋しい。

「ザインちゃん、指名の依頼だよ」
 最近、角竜を狩ってない。質に入れられた鎧をさっさと取り戻したいのだが。
「何?採集ツ……」

 依頼主の欄には、愛しい男の名があった。

―――――

「それにしても、手の掛かるお姫様ニャー」
「ま、これであの子も大丈夫でしょうし、一人立ちね」
「エミリアさんも人が悪……あニャ?」

 赤虎猫の見上げた先に、酔いどれ天使の影は無く。

「お二人……ぐっどらーっく」

 その名も猛き角竜婦人。
 女として人として、認めてくれる人と出会えた彼女。
 二度の繁殖期を乗り越えて、立派な鬼嫁になるのは少し先の話。