どうするニャ……もう一ヶ月になるニャ。
だけど……無理に行こうとして何人襲われたニャー……。
エド君と遊ぶ約束したニャ、行きたいニャー。
嫌ニャ……お父さんが危険な目に遭うの嫌ニャー……
マタタビ欲しいニャー!乾燥マタタビはむはむ禁断症状ニャー!
マタタビは中毒しないニャ!!タダでさえ誤解されてるのにミャったく……。
……あの方に、お越し頂く他無いニャか……。
そんニャ!あんな遠く、途中で襲われるのがオチだニャ!!
いや、行くニャ。良き友人が失われるのを黙ってるわけにいかんニャ……。
――『善悪偽善の三拍子』――
悪の波紋はつみぶかく
村に滞在するようになってから、一週間が過ぎた。
今日もディとカイは近くの、小さな森まで足を運んでいる。
文官の役割をディにさせるのが無理だと、上とのやりとりを一手に引き受けたジャッシュだったが、彼もまた本来の気質と今の役割は合致するものではなかった。
今朝方届いた手紙に溜息を吐く彼を、小さな牧童が見上げている。
「……やれやれ」
「何て書いてあるのー?」
蒸し暑い上に臭う。それでも屋内に閉じこもっていては腐る。
そんな理由で彼が足を運んだのは、臭いの根元となっているであろう牧場だった。
「もう暫くここにいなさい、だと」
それは体の良い嘘。
村の識字率が低いことを良いことに吐いた大人の嘘。
(ディに見せたら暴れるな、絶対……)
密猟団と商人の癒着。
アイルーの集落についてはいわゆる隠れ里であることから調査は遅れる。
長く、なりそうだった。
「あいつ、また来るかな……」
「そうしたら、また追い返してやるさ」
狩ってはいけない。それがここまでもどかしいと思ったのは初めてだった。
事実、追い返すのがやっと……いや、連戦連敗か。
あの銀火竜は予想を遙かに上回る手練れ。
それ以上に狡猾だった。
一昨々日は採集中にカイが尻尾の一撃を受け、ディに背負われて帰ってきた。
その時はディが首尾良く尻尾を切り落としたがそこから逃げられ……むしろそれ以上許されない立場故に……翌々日にはすっかり再生した尻尾をこれ見よがしに見せつけていた。
寝床を突き止めようともした。村を襲うフリをして辿り着いたところを見計らってそのまま逃げられた。
今朝に到っては伝書鳩に気を取られた瞬間、竜車のアプトノスをかっさらわれると言う醜態まで晒したわけで……。
(銀の鱗が保護色になるとは思わなんだな……)
牧童に追い返したと言ったのを含めると、嘘を付いたのは通算三度目になる。
自分達が守るのは、この村ではない。
……周辺の警戒。腹ごなしには丸まるとした「獲物」でなくケルビを食う。
時にはランゴスタまで喰らいながら、老いと空腹でくたびれきった翼を休ませる。
奇妙な、何処からとも解らない視線に怯えるように。
死に始めた獲物の体温を『視る』のは精神衛生上非常によろしくない。
そんなことがかれこれ三時間は続いている。
連なる崖の上。森の中心とも、端とも取れる微妙なラインに二人はいた。
一面の森と空の見えるそこから、ディの意識は全く違うものを『視て』いた。
カイの鎧は相変わらずガレオスであったが、今ディが纏っているのはハンターUと呼ばれる、赤を基調とした皮鎧を、黒い装甲で補強した物。
頭には赤い羽根飾りが揺れる、前方の尖った翡翠色の帽子を被っている。
前回逃げられたことを憂慮して届けさせた、普段の狩り装束だった。
「どうだ、ディ?」
前回見事に逃げられてしまったため、鎧とその要所に配された感覚を増す珠による力を頼りに探る手段に切り替えたのだが……。
「駄目だ……どーも警戒されてる……」
地図にはでたらめに、「奴」の動きをトレースした跡がのたくっている。
この付近に営巣している。
彼我の距離と、その動き全てを『視て』も、老獪な火竜相手にはそれが限度だった。
(人の足で行けない場所に営巣されてると厄介だな……)
「そういやよ、巣を見つけてどうすんだ」
横から割り込む、カイの声。
「ん……嫌忌剤ばらまきだな」
「は?」
このぐらいの乱れなら、問題はない。
「そこが安全地帯じゃねえって事を教える……よれよれのジジイだけど、縄張り候補には、困らないはずだ……」
「よれよれ?」
「……世にも珍しい下位銀ってとこ」
事実、尻尾から剥ぎ取れた鱗はお世辞にも「上」鱗とは呼べない代物だった。
代わりに積み重なった甲殻の並外れた強度が「老い」を示している。
しかし、ここまで『視る』為には並外れた集中が必要であり、その疲労は範囲と時間に比例する。
(やべ……これぶっ通しは……きつ……)
通常の狩りと比べ、精度も範囲も倍を越えた事を三時間。
「親父が狩ったの、アレの嫁なん……ディ!?」
騎士と狩人の仲を裂くことになる一言。
それを知る術も無いディはそのまま銀火竜から、世界から意識を手放し、カイの腕に背を預けた。
……直後の、決定的な動きを認識することもままならず。
やりすぎた。甘かった。それを自覚するのはカイの背の上。
ざわめく村人達の向こう。牧場にクレーターが綺麗に三つ。
その先にえぐれたラインが一つ。
その遙か先、血塗れナイトが手を振っているのは何と奇妙な光景か。
元々数えるほどしかいなかった草食竜が、更に三頭減っていた。
バレていた。
(あの野郎……)
いっそ狩ってしまえたら。
ナイトである身を、ナイトの責務を、ナイトに進んだ己を、ここまで恨めしく思った事はない。
泣きそうな顔で先輩の流した血を拭く牧童の姿が、いくらかの救い。
せめて拭えるときに拭えとふてくされる事が出来るのが、僅かばかりの慰めだった。
「エドっ!」
だから、牧草の上にほっぽりだされる事ぐらい、どうって事無かった。
集会所に戻ってまず言われたのは「バレたらすぐ切れ。もしくは弱めろ」の一言。
全身血に染まった男に関節を極められるのは精神衛生上かなり、よろしくない。
そのまま集会所に戻った所、卒倒しかけた責任者には苦笑したが。
頼むから血を拭うことの優先順位を少しでも上げてもらいたい。
「人間相手にバレたら、死ぬぞ?」
「……はい」
さらにバレてないフリをしている相手を見抜け。普段ならここまで言われる。
失態の結果を鑑みればそれが、せめてもの慰めだったのだろう。
「この近隣で、人の足で行けぬ場か……厳しいな」
「あの森だけでも結構あるからなあ、地図持ちでも呼ぶか?」
「いや、恐らく密猟相手に駆り出されてるだろう」
相変わらずの堅物だ。なら自分も生意気な若造に戻ろうか。
ナイトたるもの、常に平常心を心がけねば。
「……わざわざ返礼に来たってことは、巣を荒らしても駄目かな」
「だろうな」
それは質の悪い宣戦布告。何処までも狡猾な、老いた竜。
『視られて』いたのは、自分だったのではないか。
「捕獲……は、無理なんだよな、ここじゃ……」
押さえておくのに必要な場所も資材も無い。
沈黙。互いの思考に解決策は見いだせず、その沈痛は日没の色となって表れた。
そんなとき、耳障りな音を立てて開いた扉が二人にとって、どれほどの福音だっただろう。
「……カイ君、どうしたかな?」
「少し、お話があって来ました」
嫌に神妙なカイの目。一瞬、その奥を『視よう』として、やめた。
それで何もかも解ることができたら、色々なことが根本から覆っている。
「本当に、狩らずに終わらせないといけないんですか?」
カイがそれを聞いたのは、ジャッシュがディを背負って、恐らくは意図的に柵にぶつけて帰るのを見届けた直後だった。
今の今まで日和見を貫いていた、今までその存在すら忘れていた村長がやって来たのは。
「何だよ、ジジイ」
役立たずは黙ってろと言わんばかりに殴り飛ばしたのは何日前だっけか。
少なくとも二人が来る前だったと思う。でなければ今頃生きて無い。
「もうこれ以上、騎士様方の手を煩わせちゃいかん……」
どちらかと言えば迷信深い老人を、狩り場という現実を重んじるカイは嫌った。
「エド、怪我はないか?」
そんな老いぼれより、父母の残した牧場を健気に守る牧童の方が心配だった。
「ジャッシュさん……僕のせいで……」
「大丈夫だって、ナイトってのはよ、ハンターの中でもとびきりの連中がなるんだぜ?」
一瞬浮かんだ少年の顔はこの際忘れておく。
ついでに「秘薬」もあるしな、と言う一言も飲み込んでおく。
全ての飛竜の驚異たる人間。それを狩る彼等は、確かに最強だろう。
もう大丈夫だと虚勢を張るエド。
迷信を信じ祟りを恐れる老人。
疲れ切って、悪徳商人でも構わず縋る大人達。
「あの方達が……お優しいだけなんじゃ……」
荷物の中に、ディがのたくった線を引いた地図がある。
そこに、亡き父の足跡を重ね合わせる。
彼等を信じたかった。
「あんなジジイの、一言かよ……」
なのに……どうして日没まで彼等の元に行けなかったのだろう?
何故、本題から入ることが出来なかったのだろう?
「無理だな」
ああ、やっぱり。諦めだった。それでも、まだ信じたかった。
「祟り、とか言わないよな?」
だから、自分の一言のあとの沈黙は永遠に思えた。酷く冷たく思えた。
「先輩……」
「ディ……」
表情一つ変えない二人の目は、違う世界の人間なのかとさえ。
直後部屋に広がる、二人分の笑い声に呆然とする他無かった。
「あっはっはっはっは!!」
それは諦め故だろうか。それとも一週間と少し観察していた故だろうか?
それは暫く部屋を揺らし、その余韻は、明らかな苦笑いだった。
「くっく、祟りときたか」
「祟りだったら、まだ良いんだけどな」
二人の行動が、ここまで一致する事が信じられなかった。
ただ、その時恐いと思ったのは、ジャッシュでなく、ディだった。
「本当に、何も知らないんだな」
一週間前の、自分に剣を突き付けながら見せた笑顔が、冷笑の記憶で塗りつぶされる。
十七歳のナイト。それは、実は恐ろしいことなのだと。
遠慮を知るジャッシュが、この時ほど柔らかい存在に思えた事は無かった。
「元々飛竜のいなかったここには、縁のない話なんだろうけど」
そして、それは誤りだと知る。
「病だよ」
話の主導権を握ったのは、奪い取ったのは少年だったから。
「乱獲の余波。媒介になる生き物の増加。村が一つ潰れて、街で数十人死んだ」
恐かった。何気ない表情で、瞳にだけ怒りを灯す少年が。
睨みたいのかも知れない。怒鳴りたいのかもしれない。
その灯火だけに終わらせてくれたのは、果たして優しさだったろうか。
「うちも両親と姉貴がかかった。先輩は彼女だっけ?」
悪意だった。
だから俺達二人組んでる。そう言われたのは覚えていた。
しかし、集会所の外で、月を見上げるまでの記憶はすっぽり抜け落ちてしまっていた。
信じたかった。銀火竜に突撃してまでエドを守った少年を。
信じたかった。銀火竜の巣を見つけようと必死になって倒れた少年を。
信じたかった。剣を向けながらも見せた、あの笑顔を。
その全てが、一つの悪意の元に矛盾する。
「すまなかったな」
ジャッシュの声。唐突にいる。きっと、何かすればこのまま斬られるんだろう。
「いえ……現実だと解っただけでも……」
絶望できる。諦めはつかない。途方もない、現実。
子供の悪意の次は、大人のたしなめ。残酷な板挟みだと、思っていた。
「君は、父上を誇りに思うかね?」
「そりゃ、勿論……」
そして、悪意の真意を知る。
「ディの父親は、医者だった。潰れた村に居残った」
「あ……」
解っていたじゃないか。
彼等は決して、公正な法の番人で無い事ぐらい。
泣きも笑いもする、生身の人間だった事ぐらい。
「その病気って……どうしようもないんですか?」
「他の手段はあるが、数人の保身で、数百人は死ぬだろう」
返ってきた答えは、一割の希望と、九割の現実。
その一割の希望をひっくり返そうと戦い、志半ばで果てた父。
無念だろうと思う。その才を欠片も継いでいないのを知っているから。
父のように戦えないもどかしさを知っているから。
少年を疑った自分を恥じた。悪意に怯えた自分を恥じた。
人の心など脆いものだと、諦めてしまった自分を、恥じた。
「警告はしたぞ」
だから、目の前に迫った刃に怯えることもできなかった。
「……一つ、聞いていいですか?」
同じ月の下で、やはり少年も自分を恥じていた。
何故あんな事を言ってしまったのだろう?
自分が腹を立てていたのは、あの老いぼれ火竜ではなかったか?
話すつもりが無かったわけではない。
でも、先輩まで巻き込んで悪意をぶつけようと思ったんじゃない。
「らしくなかったな」
自分は、この村を何とかしたかったのではなかったか?
「思いの外、ムカつくもんなんだなーって……」
忘れられていく父。そんなはずはないのに。
その才を継げない自分。自分は母のそれを継いだから。
父のように、決意のできない自分。
「話したからな」
「……それって、親が出ていい事なのか?」
「ここで青春ごっこしてる余裕はあるまい?」
多分、カイにも同じ返答をしたんだろう。
それからだ。彼等の間に、埋めようの無い溝が出来たのは。
互いの行動は何処かよそよそしく、ぎこちない。
騎士は決定打を撃てず、狩人は己の知る秘密を話せず。
そこに決定的なズレが生まれるのは、火を見るより明らかだった。
「エドっ!エドの様態……ぶがっ!?」
「落ち着けっ!!」
駆け込んだカイを、ジャッシュが黙っていろとばかりに顔面を押さえつける。
ディの背中では、秘薬のお陰で一命を取り留めた牧童がいる。
「ごめ……なさ……」
最後の一個だった。
「お前になんかあったら、何のための騎士なんだ?」
そこには、三人分の嘘があった。
いつまでも、悪化するばかりの現状。誰かが耐えきれなくなるのは明白だった。
でもそれがよりによって、あんな幼子が森に向かおうとするなんて。
何かが壊れた。三者三様にそれを感じ取っていた。
一人は耐えることを諦め、
一人は信じることを諦め、
一人は諦めることを諦めた。
それでも、月がかかるまでは踏み止まっていた。
奴の寝込みを狙う為に。
血の惨劇を隠す為に。
己の決意を問う為に。
そこは、村を一歩出た場所だった。
「俺、ちゃんと警告したよな」
狩人と騎士。決して相容れない、しかし、確かにそれまで苦悩を共有していた。
「……ああ、問答する時間はくれた」
そして、互いに決めた。互いの苦悩を無為にすると。
「死ぬって、言ったよな」
それはあまりに、勝負の見えた戦い。
あまりに、あっけなく終わるはずだった。
「御免、無理だった」
「そこ、ちょっと退いてくれるか?」
だが、騎士が狩人の台詞を借りた。
返答する間も無くその場から弾き飛ばされた狩人。
同じ場所で翻る双剣の片方。弾け飛ぶ、一本のナイフ。
「……どういうつもりだ、ディ?」
小剣と盾を携えたもう一人の騎士を見て、初めて気付く。
今まで立ちはだかっていた騎士の顔は、少年のそれだった事に。
双方騎士の装束を纏い、抜刀は済ませている。
「幾らなんでも、職権乱用なんじゃねーのって」
「上からの手紙は、読んでいなかったな」
「どうせここの安否なんて、書いて無かったんだろ」
そのやりとりに、感情の動きは微塵も無い。
狩人は、おののいた。今から、何が始まるか解ってしまったから。
「アレが蔓延すれば最低でも、ここの十倍の人間が死ぬ」
「この村にはさしたる被害はなく、な」
止められなかった。止めれば、自分は間違いなくここで死ぬ。
……自分一人悪役になればいい。
そんな考えは、静かな、悪意無き殺意の前に消えていた。
「屈服させようって考えは?」
「それこそ、果てしない話だと思うが?」
どっちも、嫌なはずだ。こんな結末を、誰も望んでなどいない。
「でも、さ、他に無さそうじゃん」
「結果を、解っていて言ってるか……?」
「そういや、ジャッシュに稽古で勝った覚え無いな」
血も凍る。そんな静けさだった。最初に諦めた、己を責めた。
諦めてしまった。諦めさせてしまった。過去と同じ無念を、自分が引き起こすのだと。
「その結果でなく、だ」
「……諦めなかったんだよ、親父は」
自分が、この少年を殺してしまうのだと。
「親父の意志を継ぎたい俺」
やめろと言いたかった。自分一人死ねばとさえ。
「彼女の事を繰り返したく無いジャッシュ」
だけど、その一言が、張りつめた糸を切ってしまうと思ったから。
「これで、いいんだよ」
少年の剣が赤い殺意を纏う。騎士の剣が静かに揺れる。
次の一瞬、二人の姿が視界から消えた。